情報誌「083」テキスト版 情報誌「083」トップページへ

表紙イメージ
『083(ゼロハチサン)』
うみ やま たいよう
第2号
2008年3月31日
下関市発行
表紙イラスト・装丁
リリー・フランキー
 ふと思いだす、あの町の、
 川のほとりの、赤い屋根、
 そうして、川岸の草の上、
 わかい、絵かきのおじさんが、
 ぼんやり、水をみつめてた。

 ─金子みすゞ
   『美しい町』より
▼テキスト版目次
 
  2   特集「はし」づくし
写真=橘野栄二
  4   橋、その懐かしさ
内日〜長府〜豊田〜豊北
文と絵=林 望
  14   『角島大橋』は人と人とをつなぐ"ちなみ"
かたりべ=森澄一實さん 長岡一佳さん
  16   おっきい橋、ちいさい橋
ちいさんの関門海峡 橋めぐり
絵と文=地井武男
  22   古今東西はし學講座
文=杉谷しのぶ 地図=横川功
  26   はし休め処 小腹をいやす名物発見!
二見饅頭 サザエの壺焼き&イカ焼き
  28   下関銭湯探訪記/『銭湯の断片』観察 その2
文=町田忍
  36   ツツウラウラ発おたより劇場
  38   しものせき 祭り・イベントカレンダー 2008年4月〜8月
  40   083実現 次号予告 編集後記



特集「はしづくし」

昔と今をつなぎ、人と人とを結び、今を未来に渡す橋。
渡りゆく時、心をよぎる不思議な感覚・・・
この都市(まち)の暮らしは、そんな橋とともにある。

作家の林望さんが綴り、俳優の地井武男さんが語る、
観察と出会いと想像のドラマをお届けします。


目次へ▲

橋、その懐かしさ

文と絵 林 望 撮影=橘野栄二

(写真)内日貯水池のレンガ造りの橋で郷愁にひたる林望さん

林 望(はやし・のぞむ)

1949年、東京生まれ。愛称は「リンボウ先生」。作家・書誌学者・国文学者・詩人。慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は日本書誌学・国文学。『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞。主に日本とイギリスを遍く旅して歩き、紀行文学作品として『リンボウ先生、ディープ・イングランドを行く』『東京珍景録』『私の好きな日本』『どこへも行かない旅』などを刊行。近著に『薩摩スチューデント、西へ』(光文社)、『ついこの間あった昔』(弘文堂)、『新個人主義のすすめ』(集英社新書)などがある。
心たゆたう渡りどき

 春の野を、橋を巡って歩いた。
 橋は、なんとなく懐かしい。
 橋の真ん中に立って、川上を眺め、川下を眺める。自分が中空に浮かんでいて、その足の下を水が流れていくという景色は、不思議な浮游感を伴っている。おそらく昔の人もそれは同じ気持ちであったかもしれない。
 そうして、昔の人は、橋の上にはなにか超常的なものが出現する、と考えた。それももっともである。
 伝説の世界では、橋の上に、しばしば神や鬼が現れたりもするけれど、いっぽうで、「橋占(はしうら)」と言って、橋の上でなくては聞くことのできない不思議な「前知らせ」が聞けたりもした。
 壇之浦にゆかりのことで言うなら、あの平家滅亡とともに壇之浦の水屑(みくず)と消えた安徳天皇が生まれた時に、京の一条戻橋(いちじょうもどりばし)辺に不思議な歌を歌って通る童が出現したと『平家物語』に書かれている。
「榻(しじ)は何榻(なにしじ)国王榻(こくおうしじ)、八重(やえ)の塩路(しおじ)の波の寄せ榻(しじ)」
 という奇妙な歌だったが、それは果たして、水底に沈むべき安徳帝の将来を予言する歌だったというわけである。そういう不思議も、橋には現れる。
 橋はまた、いろいろな人が行き交う場所である。
 だからそこには、さまざまな出会いがある。
 あの弁慶と牛若丸が出会ったのだって、あれは京の五条の橋の上であった。もっとも、能の『橋弁慶』では、五条の橋あたりに、夜な夜な辻斬りをする変化の者が現れるからとて、それを退治に行くのが弁慶だったということになっていて、弁慶の千人切り伝説とは正反対になっているのではあるが。
 そんな不思議な出会いでなくても、川は橋がなくては渡れないから、いろいろな道を通ってきた人たちが川にぶつかればみな橋まで廻ってくる。そこで、思い掛けない邂逅(かいこう)なども、橋の上ではよくあったことである。そういえば、『君の名は』の名場面だって、あれは数寄屋橋(すきやばし)の上ではなかったかしら。
 出会いがあれば、別れもある。
 それも当然で、橋は国境・村境であることも多いから、つまり橋を渡れば向こうは異国、そこまで旅立つ人を送って行って、橋で別れるということも珍しくなかった。そのため、旅立っていく息子や夫が、見返り見返り遠ざかって行った、というので「見返り橋」というのが出来たり、とかくの人心が、橋には篭(こ)もるのであった。
 橋はまた、人が何かの願いを込める場所でもあった。
 三島由紀夫に『橋づくし』という短編小説がある。
 東京の下町にかかる橋をいくつも巡って歩きながら、ずっと何か恋の願を掛けて、もしその橋尽くしのあいだじゅう誰とも口をきかず、誰からも話しかけられなければ、願いが叶うという俗信をテーマとする小話である。
 そういう「願いが叶う」場所としての橋も、昔からあちこちにあって、昔話の世界では、飛騨の高山に「味噌買橋(みそかいばし)」という橋があり、そこでのお告げを聞いた男が、しまいには金満長者になるというふうに語られる。
 やっぱり橋には神が来臨し給うのであろう。
 だから、またちょっと方角を変えてみると、たとえば、近松門左衛門の『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』のクライマックスは、有名な「名残の橋尽くし」という一段だし、ともかく橋を巡って歩くことには、信仰的な意味が確かにあったのである。
 まさか、そんなつもりでもなかったけれど、私は下関一円の、橋を巡って春の野をあちこちしてみた。
 橋といっても、大(だい)は、かの巨人関門橋(かんもんきょう)から、小(しょう)は、野中の名もない一本橋(いっぽんばし)まで、その姿も用途も、材料も、意匠(いしょう)もみなとりどりである。とりどりだけれど、そのどの橋も、みな行ってみるとなんだかほんわかとした懐かしさが宿っているのだった。

壇具川沿い、静謐のひととき

 城下町の武家屋敷の風情が残る長府の町、壇具川(だんぐがわ)の橋々。観光会館から功山寺(こうざんじ)・笑山寺(しょうざんじ)のあわいなる両山橋(りょうざんばし)まで、静謐(せいひつ)な遊歩道に沿って、みな大きくはないけれど、人々の暮らしになくてはならない橋々がつぎつぎと現れてくる。
 名もない御影石の小橋の向こうへ石の階段が続き、古い土塀(どべい)が武家町の面影を色濃く残している一角など、さながら、一幅(いっぷく)の絵のような趣があったり…。
 それから、もう少し奥へ進むと、水添橋(みつそいはし)。
 この橋の欄干の柱は、新しい歩道のコンクリートに半ば埋もれたようになっているところがなんだか哀れだが、橋のたもとには枝を茂らせた桜がその昔床しい橋に覆いかぶさるように立っている。花の季節ならば、この橋の下には、散る花が三々五々流れていくのであろう。
 そうやって、散る花を浮かべ、やがて若葉が萌え、小黒(おぐろ)い夏の葉が影を落とし、紅葉(こうよう)を映し、落葉(おちば)が流れ去りして、年々歳々(ねんねんさいさい)時を送り迎えて、もう何年たったのであろう。
 もっと奥、この歩道の行き止まりのようになったところに、両山橋がある。
 功山寺と笑山寺と、二つの禅寺への道を分けるのでこの名前があるのだそうだが、この橋の向こうのところで、道はほとんど河原と同じ高さとなり、よいしょっ、その河原に下りることができる。
 水は流れるともなく流れ、水芹の群落がまだ若葉の姿で水面を覆っている。
 川床と川岸に自然が残って、ああ、ここならきっと蛍なんかも生息できるにちがいない。そう思ってふと見ると、岸辺に「蛍舞う清流復活作戦」と看板が出ていた。なるほどこれは梅雨の時分にでも、蛍を見にくるのがいいかもしれない。

(写真)1.長府・壇具川沿いの水添橋で観光ボランティアの椿守雄さんと談笑
(写真)2.壇具川の両山橋付近
(写真)3.日課のように一の俣川で野菜を洗う仲良しトリオ。左から北村三枝子さん、川口さつきさん、三浦光子さん
(写真)4.「橋は創造の源」とばかりスケッチするリンボウ先生

野菜とサイホン

 木屋川を遡り、その支流一の俣川を辿って、一の俣の温泉に至る。いわゆる山紫水明(さんしすいめい)の処(ところ)、いかにものんびりした風景に心癒されるものがある。
 その里の、まだ新しい「湯の華橋」と、そのすぐ下流の小さな名もない橋の間に、
ちょっとした堰(せき)があって、この辺りのおばあちゃんたちが野菜の泥を洗っている。
 いま畑から収穫してきたばかりの、青々とした野菜のそのうまそうな色。おばあちゃんたちの顔色も、野菜の顔色も、つやつやとして瑞々しい。
 おお、この川も、岸辺には水草が生い茂っている。
「この辺りも蛍はたくさん飛びますか」
 と尋ねたら、
「ええ、そりゃもうたくさん飛びますよ」
 と打てば響くように教えてくれた。
 私はかつて、大分県日田の鶴河内(つるごうち)という里で、素晴らしい蛍川をみたことがある。六月の初めだったが、やっぱりこういう里の川で、川床に一面水草が生えているところだった。川幅いっぱいに、無数の、それこそ何万何十万という夥しい数の蛍が舞い満ちて、なにか申し合わせたごとく、一斉に光を増し、また減じて、あたかも川全体が光の息をしているように見えた。
 一の俣の川面にも、季節が来れば、そういう美しい光の乱舞がみられるのであろうか…。
 台ヶ原サイホンと、内日(うつい)貯水池のめがね橋(P4)は、一般の通行のための橋ではない。いわゆる「産業遺産」というべきものである。
 今まで日本の行政も観光も、芸術的なものや文学的なものにのみ厚く、産業遺産に対しては冷淡であった。歴史意識の稀薄さは官民ともに変りがなかったのだ。
 が、先進工業国の先輩たるイギリスでは、たとえば、一七七九年に建造された世界最初の近代的鉄橋を今でも大切に使っていて、その町の名さえIronbridgeと名乗っているくらいである。
 日本も明治の近代化から、もう一世紀以上も経って、そろそろ明治・大正から昭和初期くらいまでの建築土木の逸物を、立派な文化遺産と認識して、これを大事に保存し、いや、保存するだけでなくて生かして使い続けるということがあってよい。
 その意味では、これらの産業遺産の橋が、こうして大切にされ、元気で気を吐いているのを見るのは嬉しいことであった。観光という意味では、従来あまり注目されて来なかったかもしれないが、じっさい、これからの時代は、こういうものを見て、そしてそこに私たちの歴史、さらには民族としてのアイデンティティを学ぶ、いわばヒストリカル・ツーリズムのような興味がなくてはいけない。
 それにしても、昔の人は、こういう産業のための構築物も、美しく作ったものだと、しばしためつすがめつ、これを「観賞」したことだった。いいねえ。

(写真)内日貯水池の取水塔。下関市で上水道の給水が始まったのは明治39年(1906年)で、日本で9番目だった
(写真)逆サイホンの水道橋、台ヶ原サイホンで

鳥居の向こう、漁する集落

 さて、もし日本の集落百選、というものを選べと言われたら、私は間違いなくそのなかに、豊北(ほうほく)町の矢玉(やたま)集落を入れるであろう。
 じつは私は、この集落を、もう七、八年以前に訪ねたことがある。いや、訪ねたというのは当っていない。このあたりをあてもなく逍遥(しょうよう)していたときに、偶然通りかかって、すっかりこの集落の景色に魅了されてしまった、といったほうがいいだろうか。
 矢玉川が、響灘(ひびきなだ)に注ぐその河口部を扼(やく)して、みっしりと家々が犇(ひし)めいている。そこが矢玉である。
 蜻蛉橋(せいれいばし)という美しい名前の橋を渡って集落に入るのだが、この橋は、たもとに斎(いつき)八幡宮の額を掲げた、天保十年の石の鳥居が立ちはだかっているという全国的にも珍しい姿の橋である。つまりこの橋を渡っていく道が、すなわちその斎八幡宮の参道でもあるというわけなのだ。その参道の石段をずんずん登って行くと、やがて集落全体が箱庭のように見下せるところに至る。その景色を見よ、その鬱然(うつぜん)たる甍(いらか)の波を見よ、家々の遠近法を見よ。もし私に風景画家の天才あらば、この景色こそは、何度描いても描き飽かぬに違いない。ここには、風景それ自体に奥行きとドラマがあると言ってもよい。
 その、以前訪ねた時は、まだ集落全体に護岸がなく、自然の川岸に連なる家々の目前をずっと架け渡している竹と木の梯(かけはし)があった。これを地元の言葉では「なだら」とか「かけだし」とか言ったそうだ。
 が、その後、すっかりコンクリートの護岸が出来て、その「なだら」も「かけだし」も、ことごとく撤去されてしまった。
 安全と便利のためだから、それも嘆くには当らないことは重々承知の上だけれど、正直言えば、やっぱり、それは残念な気がする。
 なぜといって、この「なだら・かけだし」の連なりには、海に生きる人々の暮らしの知恵と技と息吹が脈々として息づいているように見えたからだ。はるか昔からの長く黙々たる歴史を宿した風景、ああ、こんな景色はもう日本中でここにしかないかもしれない、と、その時私は思って、夥しい枚数の写真を撮っておいた。今ではその写真は私の宝である。
 いかに防波堤で守られているとは言え、あの手作りの梯のありようは、台風でもくれば押し流されたりもして、何度でも作り直すことを余儀なくされたかもしれない。しかし、そういう風にして自然と共存しつつ暮らしていた日本人の知恵が、あの景色にはたしかに発露(はつろ)していて、それはもうなんともいえない懐かしい景色だったことが思い出される。

(写真)矢玉集落に架かる蜻蛉橋の上で、商店を営む村井ユキエさんと
(写真)独特のたたずまいを残す矢玉の風景

柳に風の沈下橋

 日本人の知恵で、もう一つ私が感心するものに、沈下橋(ちんかきょう)と呼ばれる一類の橋がある。
 自然を力でねじ伏せるような巨大な橋梁を構築するのでなく、いわば、氾濫する河川の水の暴力を、柳に風と受け流すとでもいおうか…。
 平常時の水面すれすれの低さに、欄干もなにもないのっぺらぼうの橋を架ける。そうすると、水量が増してくれば、橋は水面下に沈んでしまう。だから沈下橋と言う。しかし、水面下に沈んでしまえば、河面を流れ下ってくる流木などによって打撃を受けることもなく、むしろ安全に流力をやり過ごすことができるわけである。そうして嵐が収まって水量がもとに復すれば、何の仔細(しさい)もなく再びそのたおやかな姿を水面上に現して、何事もなかったかのように、また人々を渡すのである。
 こういうのを、徳島あたりでは潜水橋(せんすいきょう)といい、土佐では沈降橋(ちんこうきょう)とも言う。いろいろに呼んでも、みな同じコンセプトの橋どもであって、どういうわけか、中国・四国に多く、関東や東北では見かけない。
 その沈下橋の尤物(ゆうぶつ)が、豊北町の粟野川河口からほんの少し遡ったところにある(もっとも、後に聞けば、このあたりでもこれを潜水橋と呼び慣わしている由であるが…)。
 優美にして毅然たる風姿(ふうし)の、その沈下橋を味わいながら渡っていったら、むこうから手押し車を押して歩いてきたおばあちゃんに行きあった。
 そして少しお喋りをした。
 なんでも昔は、この橋は橋げたの上にコンクリートの板を置いただけの一本橋で、水かさが増せばすぐに流された。そして水が引くと村の男衆が、裸になって川水に入り、その流れた橋板を、毎度毎度また乗せ直した、のだそうである。今は、丸く面を取ったコンクリートの橋がしっかりと架かって、たいていの増水には、きっとびくともしないことであろう。ここにも、そういう歴史が刻まれていたのである。
 おかげで、こうして散歩ができます、と言っておばあちゃんは、また手押し車を押し押し、元気に対岸へ渡っていった。
 私はこの種の沈下橋の風景を愛する。
 それは何気(なにげ)ないからである。過度にその存在を主張しないからである。のどかに穏やかに年輪を重ねていくからである。自然に逆らわない聡明な姿をしているからである。
 観光とはまるで縁のない、こんなところにこそ、ほんとうの意味での日本の原風景と、日本人の知恵が息づいているのである。
 沈下橋を後に、粟野川河口まで戻ってくると、山陰本線の粟野川鉄橋の上を、一両だけの列車が、のんびりのんびりと渡って行った。

(写真)右/粟野小学校近くの潜水橋で散歩していた高山芳子さんと語らう
(写真)左/粟野川鉄橋を渡るローカル列車(山陰本線・長門粟野駅付近)


目次へ▲

『角島大橋』は 人と人とをつなぐ "ちなみ"

取材/杉谷しのぶ 撮影/橘野栄二

 さながら沖縄を思わせるコバルトブルーやピーコックグリーンの海。ゆるやかなカーブと起伏を描く角島大橋は、自然の芸術にすっきりと調和した人工美をたたえている。何か夢の始まりさえ感じられて、心ときめかせて渡った。渡り終えるのが惜しいほどだ。
 人口1000人足らずの島民挙げての悲願だった角島大橋が開通したのは、2000年11月のことだった。それまでの島外への交通手段は、もちろん船。人を乗せる旧豊北町営の「角島丸」、漁協のマーケットに物資を運ぶ、漁協専用の「角漁丸」、民間の運搬船である「鶴栄丸」の3船が、島の暮らしのパイプラインであった。
 角島漁協組合長の森澄一實さんは角島に生まれ育ち、漁師として島一筋に生きてきた。漁協のある尾山港を眺めながら、昔を振り返る。
「橋ができる前、救急の場合はヘリコプターが飛んでました。でも天候が悪い時はどうしようもなかった。お盆や暮れの時期、島へ帰省したくても、シケで渡れない人は、歯がゆい思いをしたもんです。角島大橋は、まさに島民の夢でした」
「角島丸」は150人乗り、62トンの船体だった。特牛(こっとい)港との間を1日7往復していたが、橋の開通と同時に、その長い歴史に幕を下ろした。前日まで、船長を務めていたのが長岡一佳さん。自らもちょうど定年を迎えるところだったという。
「角島丸は船というより道だというつもりで、動かしてました。みんな顔なじみでね。祝い事には、船長さんも、と声をかけてもろうて。学校の先生が島を離れる時は紙テープが舞う中、演出で『蛍の光』を鳴らして、港内を3周くらいして出ていったのを思い出します」
 森澄さんから「ちなみ」という言葉を聞いた。人と人とのつながり、の意味らしい。長年培われた島の人たちの生活感情を凝縮したその「ちなみ」が、橋の開通で薄れがちと危惧されていたが、開通前の純然たる島時代をしのびつつ再び角島大橋を眺めわたすと、このほとんど芸術品のような美しい橋は、別なやさしさを島へ運んでいるのだと思えてきた。

(写真)角島丸元船長の長岡一佳さんは「家で寝ちょっても、海の状況が分かるほどです」というほど、天候による潮の流れなどをすべて把握していたという
(写真)「CMなどの舞台として全国的に紹介されるので、角島大橋がまるで名士にでもなったような錯覚さえします」と角島漁協組合長の森澄一實さん
(写真)附野の高台から見た角島大橋と角島


目次へ▲

おっきい橋、ちいさい橋 ちいさんの関門海峡 橋めぐり

絵と文 地井武男 撮影=橘野栄二 構成=大森 隆

日本一長かった橋の
てっぺんまで登ったり、
知る人ぞ知る、ひっそり佇む
世界一小さいパナマ式運河に
架かる橋を渡ったり、
「いろんな素敵なものがある
まちなんですねえ」という地井さんの
下関探訪記第2弾。

(写真)彦島と竹ノ子島を結ぶ竹ノ子島橋。この“お姉さん”や“お兄さん”たちも子どもの頃はこの橋から飛び込んで遊んだのかな?

地井武男 ちい・たけお

●1942年5月5日千葉県八日市場(現・匝瑳市)生まれ。俳優座養成所15期生を経て、映画、テレビ、ラジオなどで活躍。また、旅行ものやバラエティ番組、CMなどにも数多く出演している。趣味は絵とゴルフ。現在、テレビ朝日(毎週月〜金、午前9時55分〜)とBS朝日で、東京とその周辺を散歩する「ちい散歩」に出演。視聴者からの熱い支持を受けて、地上波の地方局でも放送するところが増えている。
「人の心に訴えるのは、おっきな建物ではなくて、"人"だよね」

 目が覚めて、窓から海を見ると、まだ早朝だっていうのに、たくさんの船が行き来していた。
 ぼくは九十九里浜の生まれだから、こういう海のある風景を見ると、ほっとする。潮の香りを感じ、船の音を聞くと、体の奥のほうから何かがざわめき立つような気がするんだ。
「昨夜のフグはおいしかったなぁ。ひれ酒もいけたなぁ」と思い出しながら海を眺めていると、おもしろいことに気がついた。海峡を右から左に進む船はゆっくり動いているのに、反対に向かう船はものすごく速い。
 最初は、船の大きさやエンジンのせいかな、とも思ったけれど、左から右へ進む船のスピードは尋常じゃない。早回しのフィルムよろしく、滑るように窓のフレームを横切っていく。
 宿の人に聞いてみると、「潮の流れが速いんですよ」との答え。たしかに、よく見ると、海水が川のように流れていて、ブイも潮にあおられて斜めになっている。
 エンジンが付いた船でさえ、潮に逆らって進もうとすると息も絶え絶えな感じになるのだから、手こぎの小さな船では前に進めそうもない。ここを舞台に繰り広げられた「壇之浦の合戦」は、源平どちらにとっても、想像できないほど厳しいものだったんだろうな。

秘密基地を探検する気分で 関門橋のてっぺんへ

 その源平合戦で入水した安徳天皇と平家一族がまつられている赤間神宮にお参りしたあと、ぼくは関門橋に向かった。橋脚のたもと付近は公園になっていて、 "お姉さん"が合戦のあらましを、紙芝居で見せている。なかなかの名調子だから、その道の人かな、と思って聞いてみると、ボランティアだというじゃない。何人かが交代でやってるんだって。
 いいねぇ、こういうの。手づくりのまちおこしっていう感じがしてさ。地域振興というと、すぐに何かの建物を建てちゃったりすることが多いようだけど、やっぱり人の心に訴えるのは「人」ですよ。
 そうこうしているうちに準備が整って、関門橋に登ることになった。天に向かってそびえるように立っている橋脚のなかにエレベーターがあり、それに乗って吊り橋のてっぺんまで行けるのだそうだ。あの、道路があるところじゃないよ。その倍くらいの高さのところから、吊り橋をぶら下げるロープが出ているじゃない。あそこまで行けるんだって。こういうのって、けっこうわくわくするよね。
 橋脚のエレベーターは、大人が4人も乗るといっぱいになる小さなもので、普段は保守のために使っているそうだ。それでてっぺんに近いところまで行き、あとは階段をよじ登る。なんだか、秘密基地を探検しているみたいだったよ。
 橋脚の上に出ると、いきなり視界が開けた。見おろすと、車道がはるか下に見える。その先は九州で、あいだを分かつのは荒々しい関門海峡だ。
 下関側も九州側も、海のすぐそばに山があるから、こんなところに橋を架けるのは大変だったに違いない。お金もかかっただろうけど、つくった人たちの情熱もすごかったんだろうな。
 昭和48年にできたときには、日本でいちばん長い橋だったとか。それから34年がたち、関門橋はすっかり周囲の景色にとけ込んでいる。下から見る、関門橋のある風景もいいし、こうやって橋の上から見おろす景色も、海あり山あり、それに街並みありと変化に富んでいて、申し分ないね。
 さらにはしごをよじ登り、いちばん高いところまで上がってみた。床が弧を描いているから、どこかにしがみついていないと、危なっかしくて仕方がない。ここから橋を吊るロープの上に出られるようになっていて、保守の人たちはその上を歩いていくらしい。けど、冗談じゃないな。そういう役がこないことを祈っているよ。

「"世界一小さい"というフレーズは、日本らしくていいんじゃないかな」
彦島から竹ノ子島へ 橋が人と人とを結んでいく

 かつての「日本一長い橋」のあとは、「世界でいちばん小さな橋」にやってきた。下関の西部にある彦島と本州とは3本の橋で結ばれているのだけど、そのうちの1本が「世界一小さいパナマ式運河」といわれているのだそうだ。
 このあたりの海は小川くらいの幅しかなく、しかも地図を見てもらえばわかるように、一方は日本海側、もう一方は関門海峡側に口があるから、海水面の差が大きくて、放っておくとものすごい潮流になってしまうらしい。そこでパナマ運河のように水門をつくり、船が安全に通行できるようにしているわけだ。
 長さは50メートルで、幅は8メートル。「運河」と聞くと、大型船が行き来するような大規模なものを想像してしまうけど、ここを通れるのは中型の漁船くらいだ。なんだかミニチュアみたいでかわいらしい。「世界一大きい」っていううたい文句はありきたりだけど、「世界一小さい」というのは日本らしくていいんじゃないかな。
 彦島は、いまでこそ造船所などが立ち並ぶ工業地帯になっているけれど、『日本書紀』にも登場しているほか、「壇之浦の合戦」では平家が本陣を置き、また残党が移り住んだといわれる由緒あるところだそうだ。あの巌流島(がんりゅうじま)も、すぐ隣に浮かんでいる。そう聞けば、歴史が醸し出す独特の雰囲気が漂っているような気がしてくるね。
 さらに西の端まで行くと南風泊港だ。これで「はえどまり」と読むのは難しいけれど、「フグの水揚げ量日本一の港」といわれれば聞いたことがあるかもな。
 下関ではフグのことを縁起かつぎでフクと呼んでるようだけど。市場のあたりを歩いてみると、目の前の海にいけすがつくられていて、活きのいいフグがたくさん泳いでいる。まるまる太って、おいしそうだ。いけね、また昨夜のフグの味を思い出しちゃったよ。
 海岸沿いに歩いていくと、また橋を見つけた。彦島の奥にもうひとつ島(竹ノ子島)があり、そこに行く唯一の道なのだそうだ。「竹ノ子島橋」という名前にちなんで親柱には竹の子のデザインが施されていたりするのだけど、そんなかわいらしいネーミングや演出とは裏腹に、周囲にはのどかな雰囲気が漂っている。
 橋の下には小さな漁船。海沿いの家の軒先には、干物をつくる網が・・・。下関の中心から、車で20分くらいしか離れていないのに、時間の進み方までのんびりしているような気がする。
「夏になると、子どもたちがここから飛び込んで遊ぶんだよ」
 通りがかりの"お姉さん"が、ぼくたちを観光客と思ったのか、声をかけてくれた。このあたりの人たちは、本当にさりげなくあたたかくて、話をしていて心地がいい。たくさんの橋をつくって島と島を結んできた下関の人たちは、人と人を結ぶのも上手だな・・・。
 前号でまち歩きを楽しみ、今回は海峡の橋めぐり。好奇心をくすぐられっぱなしの下関体験だったよ。また時間をつくってゆっくりと歩いてみたいな。おいしいものも、まだまだたくさんありそうだしね。

(写真)ここが世界一小さいパナマ式運河。今立っている橋は、船が通行する時は上に上がるそうだ
(写真)(上)南風泊市場のフグの生簀。ここに全国天然フグの約8割もが集まるそうだ
(写真)(下)市場近くのフグ専門店「ふく楽舎」で、フグのふくらむのを見せてもらいました
(絵)地井武男
(地図)横川 功


目次へ▲

【古今東西はし學講座】

文=杉谷しのぶ

橋梁建設は日本が世界に誇る技術のひとつ。そんな視点を持って見ると、今まで何気なく眺めていた橋も違って見えてくるでしょう。橋について分かるうんちく集。"知る楽しみ"が刺激されます。

スタイルいろいろ 【はしの形式と支柱間】

 主な橋のスタイル(形式)は (1)吊橋(例・関門橋)、(2)斜張橋、(3)アーチ橋(例・内日貯水池レンガ造りの橋)、(4)トラス橋、(5)桁橋(例・角島大橋)があげられます。
 橋を架ける場所の環境条件にもっともふさわしいスタイルが選ばれるのですが、1本の橋を両端で支える支柱の間隔(支柱間)の幅でくらべてみると、(1)〜(5)の順番で柱の間隔の幅は短くなっていきます。
 つまり吊橋は、少ない支柱の数で最も長い橋が架けられるということになります。海峡の上を渡した、関門橋(P16参照)がその好例でしょう。

はしでも食べられないラーメンのはなし 【ラーメン橋】

 ラーメンという橋のスタイル(形式)もあります。これは、桁と脚がひとつでできている橋で、耐震性に優れ、建設コストが安いのが特徴。名称の由来は中華料理のラーメンではなく、ドイツ語のRahmen(=骨組み構造)からです。

パソコンやバンド名ではありません 【PCとRC】

 単にコンクリートだけの橋よりも鉄筋コンクリートの橋の方が強いのは容易に分かるでしょう。鉄筋コンクリートを英語ではReinforced Concrete。それを略したのが「RC」です。コンクリートは圧縮する力に強い一方で、引っ張られる力には弱い部材。そこで、鉄筋ではなくピアノ線を使用してそれを引っ張り、コンクリートに圧縮する力を与えると、強靭さが増します。これがプレストレストコンクリート(Prestressed Concrete)つまり「PC」です。コンクリート橋には、このPCとRCが用いられ、長い大橋の建設にはPCが向いています。

美しい自然と共に 【景観設計】

 近年、自然環境やその土地の文化や暮らしに馴染まない建築物が問題視されるようになりました。そのため、日本では2004年に景観法が制定されています。
 下関市には美しい景観を誇る関門橋にならび、角島大橋(P14参照)が存在します。後者の橋は2000年に完成しましたが、橋の建設中に角島が北長門海岸国定公園となったため、自然公園法(※)に基づいてつくられました。
 PC形式を取り入れて、桁高を押さえ、景観に配慮した構造です。おかげで、CMやドラマの舞台等にも度々登場する、市民自慢のランドマークとなっています。

※優れた自然の風景地を保護するとともに、その利用の増進を図り、国民の保健、休養及び教化に資することを目的として定められた法律

下関市にもあります 【世界一のはし】

●世界一(支間長)の吊橋 明石海峡大橋(兵庫県)1,991m
●世界一(支間長)の斜張橋 多々羅大橋(広島と愛媛の県境)890m
●世界一長い橋梁 第2レーク・ボンチャートレイン・コーズウェイ橋(アメリカ)38.422km
●主塔の高さ世界一 ミヨー橋(フランス)343m
●桁下空間の高さ世界一 ローヤル・コージ・ブリッジ(アメリカ)321m
●木造橋の長さ世界一 蓬莱橋(静岡県) 897m
●車線の数が多い世界一 ハーバーブリッジ(オーストラリア)片側8車線
●世界最小のパナマ式運河 彦島水門(下関市)




台ヶ原サイホン

 下関市豊田町には、逆サイホンの水道橋である「台ヶ原サイホン」があります。
 台ヶ原は、標高190メートルという場所にあり、田畑に水を引くには困難な土地でした。そこで、台ヶ原より高地の場所から水を引いて水田とするために、逆サイホンの水道橋建設が大正4年から6年にかけて行われたのです(写真参照)。
 於福村田代(現・美祢市田代)に貯水池を設け、その水はまず、地下に埋設した管(伏樋=ふせひ)で一度低地へ降ろされます。そこから台ヶ原の下を流れる白根川を渡樋で横切った後、水は伏樋を通って山を登り、台ヶ原の大地に吹き上って分配されるという仕組みでした。
 大正期、農業のための優れた土木技術によって、34ヘクタールの水田が出来上がったのです。

サイホンが逆さまになったら? 【逆サイホンの水道橋】

 コーヒーの入れ方でドリップ式に並び、サイホン式があります。『広辞苑』によると「水蒸気の圧力を利用するガラス製のコーヒー沸かし」。別の意味では「大気圧を利用して、液体をいったん高所にあげて低所に移すために使う曲管」ともありました。
 この後者は、文章で表すと何やら分かりにくいですが、いわゆる灯油ポンプ(醤油チュルチュル)の原理です。
 ところで、「逆サイホン」を利用した水道橋があります。こちらは、「大気圧を利用して、液体をいったん低所に落として高所へ移すために使う曲管=水道」。つまり、山の水を谷を越えてお隣の山に水路を引く場合に活躍する原理なのです。

建物になった橋 【技術の象徴】

 海底や山間部など、橋が建設される自然環境は条件が厳しいところばかり。安全でとても堅固であることが求められるゆえ、最先端の高度な建設技術が使われています。
 この技術は、橋のみならず建物にも取り入れられています。古くでは、皇居の二重橋にみられるような石造りの「アーチ橋」の技術。なんとローマ時代からある建築技法です。ヨーロッパの教会などでアーチのある建築様式をロマネスク様式と呼ぶのはそのため。また、トンネルの構造もアーチ橋と同じ原理なのです。
 1964年、東京オリンピックの会場となった国立代々木競技場は、内部の柱をなくすため、吊橋技術の応用で吊構造の天井となっています。設計したのは東京都庁舎も手掛けた建築家・丹下健三。国際オリンピック委員会からも功労者として表彰され、その後、丹下氏の名は世界に知られるようになりました。

未確認飛行物体の仲間!? 【UFC】

 PCとRCについて前述しましたが、UFCはコンクリートのニュータイプです。
 正式名は超高強度繊維補強コンクリート(Ultra High Strength Fiber Reinforced Concrete)、なんと鉄筋に頼らず、かつ従来よりも厚さを薄くしても強度を保つことができる、スマートかつ堅固なコンクリートなのです。

より洗練された橋梁建設へ 【経済性】

 最近の橋づくりの傾向では、これまであったさまざまな橋梁技術の利点を集め、できるだけ資材を使わずに、軽量かつ経済的に行われているようです。
 例えば、従来コンクリートを流し込んでいた箇所に、トラス形式を取り入れる等の複合構造があります。また、鉄板を波形にして使ったり、コンクリートなどでできた円柱を梁のように使用して、従来のコンクリート面だった箇所の強度を保ったまま、できるだけ空洞をつくることにより、軽量化を追求しています。
 UFCや、斜張橋と桁橋の特性を取り入れたエクストラドーズド橋(Extradosed Bridge)の登場などもコストダウンに一役買っています。

世界に誇る 【ジャパンブランド】

 大規模な橋梁建設の技術は、一朝一夕で発展するものではありません。これまで架けられた橋の実績が新たな取り組みを支えているのです。
 「関門橋」の建設があったからこそ、明石海峡大橋が1998年、世界最長の吊橋という栄誉を受けることができたのです。明石海峡大橋建設のノウハウはその後の世界の橋梁建設に生かされています。
 一見、クレジットなどに日本の建設会社が携わっていなくとも、技術指導者として関わっていることもあるのだとか。橋梁建設の技術は紛れもなく、世界に誇るジャパンブランドといってもよいでしょう。




橋は西から東へ
陽は東から昇り、西に沈む。橋は西から東へすすむ・・・

 と、国内の橋梁業界では言われています。
 それは、長崎の西海橋にはじまり、若戸大橋、天草五橋そして関門橋と徐々に橋の建設の規模が大きくなって
きたことにゆえんします。
 また、関門橋は、九州から本四架橋(本州と四国を結ぶ橋)の発展へと続く重要な出発点でもありました。
 世界へとつながる橋梁技術の道は、関門橋からスタートしたというのも、感慨深いですね。

(写真)昭和48年、関門橋開通を前に行われた歩行見学会。今年で建設35周年を迎える

●取材協力

 鹿島建設株式会社 横河工事株式会社

●参考文献

 『建設博物誌』  鹿島建設編(鹿島出版会)

目次へ▲

【小腹をいやす名物発見!】はし休め処

撮影=橘野栄二

「ときわ屋」の二見饅頭(20個 400円)

早朝から、甘い香りのする蒸気が満ちている店裏の工場内。働き者のお母さんたちが手際よく蒸し上げていく饅頭は、多い日には1万2000個も(!)。ほんのりと黄味がかっているのは、皮に卵が使用されているから。餡は北海道産の小豆をたっぷりと使用した自家製にこだわる。それゆえに小豆相場が上がると原価割れに近くなることも。祖父の頃からの変わらない味を受け継ぐことはそう"甘く"ない。

ときわ屋

下関市豊北町大字北宇賀3109-1/電話083-782-1021/7〜18時。(19時までの場合も有)

(写真)年中無休で「ときわ屋」のおいしさを守る3代目の江原寛さん

「玄海」のサザエの壺焼き&イカ焼き(一皿 500円/一串200円)

角サザエやイカを香ばしい"炭焼き"で食べさせてくれる店。イカは食べやすい切り込みがあり、ほおばるとプリッとしていながら、かつ柔らかい食感の後に、磯の旨味が押し寄せる。味付けは、サザエはそのまま、イカは塩だけのというのも鮮度に自信がある証。「主人はね、若い女性が来るとサービスしちゃうの。わたしたちは素敵な男性かな?」と言うお母さんたちのおしゃべりも最高のスパイスだ。

玄海

下関市豊北町大字角島灯台公園前/店に電話はなし/9〜16時ぐらいまで。

(写真)「ようおいでませ!」西嶋智恵子さんと田村政江さん。智恵子さんは「玄海丸」大将の奥さま(写真・左)


目次へ▲

全国津々浦々2900の銭湯を訪ね歩いた 第2回 町田忍の銭湯アットホーム 下関でザブン!

撮影=橘野栄二 photo Eiji Kitsuno

前号で「銭湯」というものの深い味わいを開示し、東京などの銭湯と比較しつつ、
下関特有の魅力を紹介してくれた庶民文化史研究の大家、町田忍さん。
続いて今回いよいよ、今なおのれんが街になじむ下関の銭湯の核心に迫った。
地元の人たちにこよなく愛されている理由とは?

町田 忍 まちだ・しのぶ

●昭和25年(1950)、東京生まれ。全国各地、見落とされがちな風俗意匠を研究する庶民文化史研究家。著書は『昭和なつかし図鑑』(講談社文庫)、『懐かしの昭和30年代』(扶桑社)、『納豆大全』(角川文庫)など50冊。銭湯めぐりの集大成ともいうべき近著『銭湯遺産』(戎光祥出版)も好評。現在は庶民文化研究所を設立。
この街ならではの特徴を解明する!下関銭湯探訪記 その2

文/町田 忍

 さて、前回において、銭湯における建築様式として、東京は宮造りというお寺のような様式が銭湯の定番様式であることを説明した。
 では、下関における様式の特徴は何か、ということについて私は考えてみた。その結果はまず建物が堅固であること。それは、おそらく気候などが関係しているものと思われる。すなわち、海に近いのでその分、潮風に強くする必要があったからであろう。
 次に男女の入口がそれぞれ独立していることが多いということ。これはとくに東日本の方の銭湯は、入口は一つで、建物の中に入ってくつを脱いでから男女に分かれることが多いことと比べると、興味深い。入口が男女別にあるという理由は、スペースを合理的に使用することにある。すなわち建物の中に入った後、独立した下足箱の部屋が無く、入口を入るとそこはもう直接脱衣場となるわけで、傍らに下足箱がある。その分広さを有効的に利用できるという利点がある。
 これは規模の大きな東京や関西の銭湯ではできない。なぜならば、下足箱の数が男女計で100個前後となれば、それを脱衣場と同じスペースに置くことは無理というもの。そんな合理性から下関の銭湯の多くが、男女別の入口となっているものと思われる。
 その他、これは下関のもつ地形も関係していると思われるが、坂の多い場所に建つ銭湯が目につく、ということである。
 ところで、下関に銭湯の数が多いことは前回も述べた。山口県の浴場組合の資料によると、本年1月末日現在における県内の加盟銭湯数は27施設、そのうち下関の銭湯は13軒と半分ほどが下関に集中していることになる。
 1960年代には下関の市街地だけでも60軒ほどの銭湯があったというから、全国的にみても銭湯の密集地であったことが理解できる。
 これは単に前回私が述べたように、港町には銭湯が多い、という理由だけではなさそうだ、ということに気がついた。
 それにはいくつかの理由があると思われる。まずは下関の人は銭湯の良さをよく理解しているということだ。銭湯は内風呂にはない広い空間や設備などがある。また人と人とのコミュニケーションの場でもある。昨今の殺伐とした時代にこそ、このようなぬくもりのある場というものが必要になってくるのではなかろうか。
 次に、下関の銭湯組合の積極的な活動があげられる。ともすればこの業界というもの、古い体質といわれ広報活動に関しては、現在でも十分とはいえない部分も多いなか、いろいろな企画で宣伝活動をしていることも、元気な銭湯が多いことに関係しているようだ。
 そんな活動の一部を紹介してみると。
 まずは健康入浴推進事業の実施として、救急救命技能習得研修がある。実はこの資格は私も受けているが、最近も東京のある銭湯にてお客さんが倒れた時に応急処置をして役に立ったことも事実あった。
 次に、高齢者健康入浴サービス事業として高齢者(65歳以上)を対象に健康無料サービス(組合の指定した銭湯にて指定日)を行っている。
 さらに、市内の70歳以上の方には毎週火曜日、1日1回100円で利用できるというサービスも行っているのだ(年齢を確認できるものを持参)。
 さらには、2007年12月末には「銭湯へ行ってみましょう」という「しものせき観光キャンペーン実行委員会(協力・山口県公衆浴場業生活衛生同業組合)による、下関市内の13軒を紹介したカラーの写真入り銭湯マップを作成した。観光名所も同時に地図の中に記されているので、観光客にはうってつけのマップとなっている。また、歌手の山本譲二が少年時代に利用していた「辨天湯」、童謡詩人の金子みすゞが入ったという「喜楽湯」などといった紹介もされており、見るだけでも楽しいものになっている。
 このマップは、銭湯以外でも市内の図書館などの公共施設において無料で配布されている。
 料金を徴収する入浴施設が商売として発祥してから約800年ほどとなる。長い歴史のなかにおいて銭湯は、たえず庶民生活における入浴、すなわち体の汚れを落とす施設という機能だけではなく、憩いの場、癒しの場、すなわち浮世の垢を落とす場としての役割も果たしてきた空間なのである。
 現在世界中にこれほど、身近に入浴施設がある国はない。それは単に日本の国土、すなわち水が豊富で高温多湿だからということのみが原因ではないということである。
 現在、全国では1日に1軒のペースで銭湯が閉店しているのが現状であるなか、今回私は下関の銭湯めぐりをしてみて、地元の人々に愛されている多くの銭湯が、それぞれ個性的であり、入浴していても地元の人が気軽に声をかけてくれる、アットホームな雰囲気を体験できたことがたいへん嬉しかった。
 次回は新しい銭湯マップを片手に、銭湯めぐりをすることにしよう。

(写真)東京の代表的銭湯建築 明神湯(大田区)

撮影=町田 忍

(写真)p28上、29左上、左下、下、33、34左下:千歳湯
(写真)p28中、32、34上、右下:えびす湯
(写真)p28下、p29右上:日乃出温泉
(写真)p35上、左下:辨天湯
(写真)p35右下:霧島湯
〇千歳湯=上新地町4-4-7
〇えびす湯=今浦町5-6
〇日乃出温泉=大和町1-12-12
〇辨天湯(べんてんゆ)=幸町14-5
〇霧島湯=竹崎町2-11-8

第2回 銭湯の断片 観察

文/町田 忍

湯船

 湯槽ともいうが、やはり湯船のほうが私にはピンとくる。東京型は富士山のペンキ絵の下の部分、すなわち正面壁側にあるが、他の地区は浴室の中心部分や男女の境部分にあることが多い。また小さな湯船のある銭湯も多く、主としてこれらは薬湯などの入浴剤用として使用されることが多い。最近は湯船を小さく分け、いろいろな機能となっているものが多くなってきたが、個人的には広い湯船にどっぷりと浸かりたい。

飲みもの

 銭湯に入浴すると、のどが渇く。体の水分が失われるためであるが、本来は入浴前に飲んでおいた方が医学的にはよいそうだ。 銭湯には牛乳などが置かれていることがあるが、これは昭和30年代中頃に、牛乳の新しい販路として冷蔵庫の普及とともに銭湯にて販売されるようになったという。腰に手をあてて一気に飲み干すコーヒー牛乳目的によく親と行ったことを思い出した。

屋号

 全国の銭湯の屋号で一番多いのは「松の湯」である。下関においては現在は松の湯はないものの、やはり縁起のよい屋号が多い。 私がかつて出合ったユニークな屋号は、キューピー湯、ラジオ湯、タイガース湯、オリンピック湯などである。これらは当時の時代背景がおおいに関係していると思われる。 ちなみに全国で2番目以降は「梅の湯」「栄湯」の順となっている。

体重計

 銭湯脱衣場の三種の神器といえば、体重計、マッサージ器、柱時計かもしれない。一口に体重計といってもいろいろで、その形で時代も理解できる。さすがに貫目のみのものはほとんど見かけないが、貫目とキログラムの併用はけっこう残っている。古いものは下の台の部分に足の形が残っていたり、多少表示が不正確なこともあるが、そんなことはたいして気にはしていない。最近はデジタル式も登場している。

煙突

 銭湯のシンボルともいえるものに「煙突」がある。様式もいろいろで、かつてはレンガ造りが多かった。下関の銭湯では、カルシウム温泉などがレンガの煙突となっている。  東京の銭湯は戦前において75尺(約25メートル)と決められていたが、下関がそれより低いのは東京型銭湯より規模が小さいためと思われる。最近は周りに高い建物もでき、目印としての役割はうすれている。

脱衣ロッカー

 銭湯の脱衣場にロッカーのような設備が広まったのは戦後のことである。板の間稼ぎという泥棒がかつて多く、他人の金品を盗んでいくことがあったために、防犯のためにロッカーが現在は主流となっているが、常連客が多い銭湯では、現在でも丸いかごを使用することが多い。番台からの監視もあり、常連客以外が来ると、とくに注意してくれることになっている。

入浴料金

 銭湯における入浴料金は、都道府県ごとに異なる。山口県は、大人360円、中人150円、小人80円。東京は同430円、180円、80円であり、唯一佐賀県は現在でも入浴料とは別に洗髪代50円となっている。料金は各都道府県の審議会により決定されている。ちなみに大人料金が全国一安い県は宮崎県の300円。ほか四国全県は330円で統一されている。

燃料

 お湯を沸かすための燃料にもいろいろある。かつてはとくに終戦直後においては、燃料にする廃材などを集めるのに番頭さんはかなり苦労したという。最近は重油が主流となってきたが、石油高騰のため薪(家の取り壊しの時に出る廃材など)が再び注目されている。木材は重油よりじっくりと温度が上がるので、さめにくいともいわれている。一番よいのはオガ屑という説もある。


目次へ▲

ツツウラウラ発 おたより劇場 OTAYORI THEATER

関門海峡を見下ろすことのできる、丘の上の町並みの風景が印象に残りました。「下関」について、イメージすることは、赤間神宮や唐戸周辺とお決まりの場所がこれまでは多かったです。しかし、「083」を手に取ってみて、昔の良き古き風景が残っていることをはじめて知りました。何気ない日常の一コマかもしれませんが、私はそれらの写真にとても気持ちを落ち着かされました。「三丁目の夕日」ではありませんが、後世に残したい景色が下関にはあります。これからも大切にしていってほしいです。
(26歳 男性 福岡県北九州市)

五木の道の駅で手に取りました。あれ、見たことないなぁと思ったら創刊号!!とても内容が充実していて、下関広報誌(しかもFREE)なんてすごいと思いました。下関といえばフグ、そして私の故郷愛知のフグとも関わりが深いですよね。083を読み、一度訪れてみたい気持ちが強まりました。これからも創刊号パワーを継続して頑張ってください。下関ならではのプレゼントがあると嬉しいなぁ、なんて思う私はセコイかな??(笑)(でも、下関の味や名物を知る機会を読者につくってくださると嬉しい)
(36歳 女性 熊本県球磨郡)

観光ガイドブックには載っていないけれど、普段から親しみのある、どこか懐かしい様な下関の裏路地を集めた本。いままでありそうで無かったステキな一冊だと思います。カラーで美しく文章も面白くて昭和のミニ情報もとても興味深かったです。昔と今、双方の良さが合わさって、下関のあたたかさや優しさがいっぱい伝わってきます。県外の友人たちにも是非みせてあげたいです。今後も楽しみに期待しています!
(37歳 女性 下関市

自治体が発行している情報誌としては堅くなく読ませるつくりになっていて良い情報発信源になるものと思う。観光施設の紹介や食べものだけでなく普通の街や生活を興味を引くような作りで発行していってください。
(45歳 男性 千葉県白井市)

仕事ながら初めて下関に来ました。海峡を渡る大型船の数とその風景が素晴らしい。これだけでこの街を好きになりました。長府博物館、東行庵も良かった。観光情報センターでは親切かつ丁寧な対応をしていただきました。金子みすゞの記念館か資料館があればとは思いました。偶然、この情報誌を手にとり読みました。毎号読めないのが残念でなりません。全ページ読みました。役に立つ、かつ楽しい本です。
(41歳 男性 兵庫県神戸市)

「ちいさんのおさんぽ」がとても良かったです。地井さんの人柄が写真から伝わってきてとてもほのぼのとした印象を受けました。昔の唐戸市場の近くでアルバイトしていました。その時、市場の中にある食堂で食べた朝食がおいしかったことがなつかしく思い出されました。
(54歳 男性 福岡県遠賀郡岡垣町)

1、とにかくお見事。見応え十分。一方でこんなにテマ・ヒマかけて立派なもの、どんな予算で何部作っているの?長続きするの?と要らぬ心配。2、この内容なら年会費いくらいくらで…で『下関外部応援団』になってもよいという印象。
(69歳 男性 大阪府豊中市)

リリー・フランキーさんの表紙イラスト、インタビュー等ここで見れるとは思いませんでした。とても良かったです。できれば、旧下関英国領事館のカフェオレを飲んでいる姿を見たかったです…。次号は3月発行とのことですが、素敵なゲストさんを期待しています。
(28歳 女性 下関市)

写真の表紙もいいのですが、どうも絵が下手な私にはイラストの表紙にはあこがれを感じてしまいます。すごく夢のあるイラストでとても癒されました。くじら館すごくリアルでいい。地井さんのテレビはたまに見ていますが、こんな旅の仕方が素晴らしいです。40歳になって改めて昭和の大切さを感じました。学校給食で食べたくじらがなつかしいです。下関は遠いですけれど、古き良き時代のものがたくさん残っているというのはとても身近に感じてきます。新しいものもいいですけど。
(40歳 男性 埼玉県草加市)


目次へ▲

しものせき 祭り・イベントカレンダー EVENT CALENDAR 2008年 4月 - 8月

祭りだ、花火だ、下関だ〜〜〜
春から夏へかけて、行楽シーズンまっただ中!
自然、歴史にグルメなイベントが待っていますよ。

●お問合せ=下関市観光振興課 083-231-1350
川棚温泉まつり

●4月5日(土曜日)・6日(日曜日)[豊浦町大字川棚]

川棚温泉に伝わる青龍伝説にちなんだ祭りで、餅まきや青龍太鼓の披露、少年相撲などイベントが盛りだくさん。中でも西日本一円から集まる約60団体によるよさこい舞龍祭は見もの。祭りで汗をかいた後は、温泉に浸かってリフレッシュしてください。


菊川桜まつり

●4月6日(日曜日)[菊川町大字上岡枝歌野]

歌野周辺に咲き乱れる歌野千本桜。その桜並木の下で、菊華太鼓の演奏やヤマメのつかみ取りなどのイベントや各種バザーが催されます。イベントの最後は、桜苗木抽選会と餅まきもあります。


唐戸まつり(春)

●4月12日(土曜日)[唐戸地区]

「いくぞ!唐戸、祭りだ!朝市だ!」「見つけよう!今日の楽しみ、唐戸のお得」をキャッチフレーズに、下関の台所と呼ばれる唐戸市場で行われるまつり。ふく鍋販売やふく釣り、まぐろ解体実演、魚のたたき売りのほか、唐戸商店街の朝市やカモンワーフでのイベントなどもあり、唐戸地区一体となって盛り上がります。


維新・海峡ウォーク

●4月13日(日曜日)

高杉晋作の墓所で、奇兵隊本陣のあった吉田清水山の東行庵(とうぎょうあん)を出発。城下町長府やみもすそ川公園など、維新の史跡をめぐりながら南下、JR下関駅までの30km(門司港レトロコースは28km)をのんびりと歩くウォークラリー形式のイベントです。道中のすばらしい景観を楽しみながら、素敵な思い出をつくってください。


菊川観光イチゴ狩り

●4月26日(土曜日)〜5月6日(火曜日)[菊川町内一円]

春の味覚を代表する甘くておいしいイチゴ。菊川町内の農園では毎年、観光イチゴ狩りを行い、毎年3000〜4000人の家族連れやグループが訪れています。立ったままイチゴをもぎ取ることができる高設栽培もあり、好評です。旬の恵みがたっぷり詰まったイチゴはお土産としても喜ばれるでしょう。


土井ヶ浜弥生まつり

●4月29日(火曜日)[豊北町大字神田上]

弥生時代の遺跡がある土井ヶ浜弥生パークを中心に行われます。毎年恒例の「神火耕木(紙飛行機)コンテスト」をはじめ、「火おこしコンテスト」など、土井ヶ浜弥生パークならではのイベントがあります。


しものせき海峡まつり

●5月3日(土曜日)・4日(日曜日)[関門海峡沿岸一帯]

しものせき海峡まつりは、関門海峡を舞台に繰り広げられた史実を基にした、歴史情緒豊かな祭りです。源平壇之浦の合戦で滅びた平家一門をしのぶ豪華絢爛な「先帝祭」をはじめ、源平両軍の紅白の幟をたなびかせた80隻あまりの船による海上パレード「源平船合戦」、勇壮な「武者行列」など、源平にまつわるさまざまな催しに乞うご期待!


東行庵の花菖蒲

●6月上旬〜中旬[大字吉田]

下関を舞台に活躍し、その名を歴史にとどろかせた維新の志士、高杉晋作の菩提を弔っている東行庵。この庵の初代庵主梅処尼となったおうのが好んだ花菖蒲100種約1万株が、池一面にいっせいに咲き誇り、見ごろを迎えます。この時期にはお茶席や露店が設けられ、苗の販売も行われます。


豊田のホタル祭り

●6月7日(土曜日)・14日(土曜日)[豊田町大字西市]

夏の風物詩ホタル。豊田町でゲンジボタルが乱舞を見せ始めるころ、西市には100軒あまりの出店が並び、ステージショーや精霊流し、ホタル観賞バスなどのイベントが盛りだくさんです。


日本初のホタル舟運航!

●6月12日(木曜日)〜29日(日曜日)[豊田町木屋川流域]

日本有数のホタルの里ならではのイベント。船上から国の天然記念物「木屋川のゲンジボタル」の乱舞を両岸に眺めながら、川下りが楽しめます。ホタルの光が幻想の世界へと誘います。
※乗船は要予約
 (5月1日〈木〉午前8時30分から)豊田のホタル舟実行委員会/083-766-0031


武蔵・小次郎決闘の寸劇

●7月5日(土曜日)〜9月28日(日曜日)の間の土・日・祝日[唐戸町]

慶長17年(1612年)4月13日、関門海峡に浮かぶ小島、船島(巌流島)で二人の英雄が雌雄を決しました。400年の時を経て、今、再び両雄が決闘します!


菊川夏まつり花火大会

●7月26日(土曜日)[菊川町大字下岡枝]

2500発の打ち上げ花火のほか、バザーやバンド、菊華太鼓の演奏、ビアガーデンなどの催し物でにぎわいます。近くで上がる花火は迫力があり、菊川盆地ならではの轟きが体験できます。


豊浦夏まつり&花火大会

●8月2日(土曜日)[豊浦町大字川棚]

間近で見られる大迫力3000発の打ち上げ花火のほか、よさこいなどのにぎやかなステージイベント、ゲーム大会、お楽しみ抽選会などが催される祭りです。


豊北町の観光梨狩り

●8月〜9月[豊北町内一円]

愛甘水や幸水、豊水、新高など、さまざまな種類の梨の食べ比べもできる観光農園(4農園)があります。


関門海峡花火大会

●8月13日(水曜日)[関門海峡沿岸一帯]

関門海峡の美しい夜景を舞台に海峡の両岸から打ち上げられるおよそ1万3000発の華麗な花火。美しい関門海峡の夜景に加え、対岸から打ち上げられる花火とのコントラストが魅力です。


しものせき馬関まつり

●8月23日(土曜日)、24日(日曜日)[下関駅唐戸間]

下関をあげて行われる市民のお祭りです。平家踊りなどを中心に、下関駅と唐戸一帯にかけた随所に特設会場を設けて催しが行われます。

(写真)関門海峡花火大会


目次へ▲

芸のDNA 次号予告(2008年8月1日頃発行予定)

アンケート

『083』は今これを手に取られたあなたのための情報誌です。つねに深い眼差しを心がけて、ワンテーマ方式で下関市から情報発信してまいります。第2号についてのご感想、及び今後特集してほしいテーマやとっておきのお知らせなどを、綴じ込みハガキでお寄せください。アンケートに回答いただいた方の中から抽選で10名様に、26ページで紹介した「ときわ屋の二見饅頭」をプレゼントします。応募締切は平成20年6月30日消印有効です。当選発表は発送をもって代えさせていただきます。



編集後記

 第2号の発刊を迎えることができました。地井さん、町田さん、林さんの取材に同行させていただきましたが、3人から共通して感じたこと、教えていただいたことは、私たちが普段気にも留めない風景や日常生活の中にそのまちの魅力、失ってはいけないものがあるということでした。下関を知っている人、知らない人、来たことがある人、ない人を問わず、083が皆さんのまちにもその魅力と失ってはいけないものがあることをきっと教えてくれるはずです。(S)

 特集の取材のために、下関市内にあるたくさんの橋を訪ねました。「橋」と言っても、関門橋のような巨大建造物から名もない小さなコンクリート橋までといろいろあります。目的も、単に人やモノを渡すだけでなく、ランドマークとなったり、心かよい合う場所であったり、時には命をつなぐ架け橋とさまざま。そこには、いきいきとしたドラマがありました。一方で、人の渡りがない橋はぬけがらのようです。橋は人と自然が共存する建築物の象徴のようだなと感じました。(SS)

 第2号の巻頭記事はリンボウ先生が書いてくださいました。多芸多才で知られるリンボウ先生ですが、その中には車の知識と運転も含まれていて、どこへ行くにも空港から先は自分の手でレンタカーで動くというのです。それも行き止まりになるかもしれない小道を分け入るのが趣味とか。美声でもって話題豊富な旅の達人は、アルコールを一切嗜まず、時間を数倍にのばすかのごとく充実させる人生の達人でもありました。助手席でいろいろ拝聴できたことに感謝致します。(F)



083実現

本誌名はご想像のとおり、2008年3月1日から変わった下関市の市外局番に由来しています。しかし、下関は3個の数字だけで示せるほどモノトーンな街ではありません。「うみ やま たいよう」とは、それを補足するサブタイトルです。海あり山ありの下関を、春から夏の太陽がしっかりと応援してくれています。本州西端、「うみ やま たいよう」をめぐるドラマの主人公は読者の皆さんです。

『083(ゼロハチサン)』第2号  うみ やま たいよう

2008年3月31日発行
編集人=福田章 ディレクター=杉谷しのぶ 表紙イラスト=リリー・フランキー 装丁=リリー・フランキー
写真=橘野栄二 デザイン=垣田健一郎 藤井政明 編集委員=内田宗治
発行=下関市 〒750-8521 山口県下関市南部町1番1号 TEL:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
制作統括=(株)電通九州 印刷=凸版印刷(株) 協力=下関市の皆さま
アドバイザー/下関フィルム・コミッション 常任委員長 冨永洋一 九州芸術学館山口校 代表 伊東丈年

○バックナンバーを希望される方は、下関市までお問い合わせ下さい。
 TEL:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
○下関市ホームページからも電子ブックで『083』が読めます。
 http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/083/

本誌記事・写真・イラストの無断転載を禁じます。


目次へ▲