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表紙イメージ
『083(ゼロハチサン)』
うみ やま たいよう
Vol.3
2008年7月31日
下関市発行
表紙イラスト
アジサカコウジ
 わたしの十(とお)のゆびさきで、
 まず生れます、虚無僧(こむそう)が。

 みるまに化(な)ります、鯛(たい)の尾に、
 ほらほら、ぴちぴちはねてます。

 鯛もうかべば帆かけ舟、
 舟は帆かけてどこへゆく。

 ─金子みすゞ
   「おり紙あそび」より
▼テキスト版目次
 
  2   特集 芸のDNA
イラスト=林 望
  4   “関の玉三郎”スペシャル・インタビュー
坂東玉三郎 女形の軌跡を語る/下関特別公演情報
  12   風の正体〜下関が生んだスターたち
藤原義江・田中絹代・二村定一・林伊佐緒
文=福田章 撮影=橘野栄二
  23   たおやめ芸の伝承「先帝祭上臈参拝」に酔う
文=野村ゆき 撮影=橘野栄二
  28   腕とアイデアの粋が生きる 芸達者な逸品
「古串屋」のうに懐石/「たかせ」の瓦そば
  30   町田忍の下関銭湯めぐり+レトロ徘徊記
下関の狛犬さまたち
  37   ツツウラウラ発おたより劇場
  38   新連載 〜物語のある居酒屋〜 一軒目
「まんなおし」 写真と文=大野金繁
  40   次号予告 アンケート リンボウ寸言



特集 芸のDNA

人は生きる楽しみに、
達人の芸≠求める。
求められるほど奮起して、
芸を磨く表現者たち。
この街の歴史をひもとけば、
そんな至芸の綾なす縦糸が
確かに一本、通っている。
受け継がれてきた芸に心を潤し、
未来へ贈ろう。
さても皆さま、トザイトーザイ!

イラスト=林 望

(イラスト)このイラストは、下関市豊前田町にあった「稲荷座」の古写真(明治30年代撮影、『しものせきなつかしの写真集 下関市史』所収)をもとに、作家の林望さん(本誌・編集委員)が描いたものです。


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今年も錦繍の頃、典雅に舞う
関の玉三郎<Xペシャル・インタビュー
坂東玉三郎さん
女形の軌跡を語る

インタビュー・構成=福田 章
撮影=橘野栄二

今や世界が認める歌舞伎界のスーパースターにして、
妖艶きわまりない全霊の女形・五代目坂東玉三郎さん。
今年11月4日に開かれる3回目の下関公演を前に、
本誌独占の先行インタビューが実現した。
無類の海派≠ナある玉三郎さんの奥深い芸術論は、
寄せては返すさざ波のような浮遊感をともなっている。

坂東玉三郎(ばんどう・たまさぶろう)

東京生まれ。歌舞伎俳優。当代随一の人気と実力を有する女形。幼年時、病弱克服のために習った日本舞踊の魅力にとりつかれ、十四代目守田勘弥の部屋子となる。7歳の時、東横ホールで初舞台。64年6月、守田勘弥の養子となり、五代目坂東玉三郎を襲名。69年、三島由紀夫作『椿説弓張月』で白縫姫役に大抜擢された。以後、大役を次々に務めて注目を集め、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など国際舞台でも活躍。この5月には日中合同昆劇を北京で成功させた。下関公演は2005年5月、2007年11月に次いで3度目。

※下関公演の詳細は11ページに掲載。
この街に漂う海の気が役者魂を刺激する

 下関へ来るたび、海の気を全身に浴びることができて、細胞のひとつひとつが呼び覚まされるようです。目に見えないマイナスイオンがあふれているのでしょう。魂の奥深くまでが落ち着いてきます。
 私はダイビングが趣味で、ここ10年くらいは年に1回の割合で世界の海に潜ってきましたが、海の中は安らぎに満ちています。重力からの解放感が、そこはかとない沈黙の美を垣間見せてくれ、はるか遠い昔の人類の祖先が感じていたであろうことを感じられます。それは無重力無意識の世界を舞台で表現したい、と願う私のヒントになります。
 電磁波まみれの都会で10カ月も11カ月も働いた後に海に入って自然にもどると「あの演技はまちがっていたかもしれない」などと、別な視点からの発想が生まれたりもします。いつでも謙虚な気持ちで、軌道修正していきたいのです。
 前2回の下関公演では、皆さまの歓迎ぶりに感激しました。一度などは、幕がおりた後も拍手が鳴りやまず、舞台にもどったのですが、一瞬気が遠のいたくらいです。さすがに歴史ある港町で、芸能や文化への熱意には、並々ならぬものがあるようですね。
 それでなくても三大名作のひとつに数えられる『義経千本桜』や2005年に三段目の「阿古屋琴責(あこやことぜめ)」を演じた『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』など、歌舞伎の出し物と縁の深い街ですから、親近感があります。平家ゆかりの赤間神宮へお参りした際は、たいへん感慨深かったです。

(写真)にこやかに言葉を選んで語る玉三郎さん。その話題は森羅万象を捉えて、古今東西の芸術全般に及ぶ。

「奇跡の女形」ではなく「女形の軌跡」

 私は歌舞伎一門の出身ではありませんが、料亭を営んでいた父母が歌舞音曲に理解があり、小さい時から踊りだしたら止まらないくらい踊り好きだった私を、喜んでこの道に送り出してくれました。
 最初のきっかけは、4、5歳の頃両親に連れられて、歌舞伎座で女形の大先輩、六代目中村歌右衛門丈の舞台を観たことでした。八ツ橋という花魁(おいらん)の役の死に方が美しく、いつか自分もあのような女形になって、あのような演技がしてみたいと思いました。十四代守田勘弥に弟子入りして、十四歳で「坂東玉三郎」という芸名をいただき、養子として迎え入れられました。父からは「とにかく謙虚でいるように」と、懇々と説かれました。表面だけでなく、内面から、真からという意味です。
 遠い未来に焦点をおくよりも、今この瞬間に集中して、今日の舞台が終われば、もう明日の舞台のために最善の備えをするよう心がけて生きてきました。お客さまがご自分の時間を割いて、つまりそれぞれの人生を切り取って観にきてくださるのですから、当然といえば当然のことです。
 そんな私のあり方を「完璧主義」と評される方もいらっしゃいますが、人間はそれなりに皆、完璧に生きていきたいという理想を抱いているのではないでしょうか。だからおのずと、自分にも周囲にもきびしくなりがちです。お客さまのいない仕事だったら、もっとルーズにしていたいんですけど(笑)。
 「奇跡の女形」なんて呼ばれると面映ゆいばかりです。真面目に取り組んできた一人の「女形の軌跡」ならば語る資格があるかもしれません。といって「よく生きよう」と念じているだけで「生き尽くした」わけではなく、「極めたい」と願っているだけで決して「極めた」わけではない。「資質」というのは自分ではわからないもので、今でも、舞台がうまく務められなかった時は、自分には資質がないのだと気が沈むことがあります。

(写真)玉三郎さん6歳時の舞踊の初舞台『羽根の禿』。既にして「天性の女形」ともいうべき舞い姿が立ちのぼってくるようだ。

美を求める心こそ、人間特有のDNAである

 資質をDNAと言い換えるなら、私は実父からも養父からも多くのものをいただいているといえます。しかし「銀河系宇宙」レベルで物を考える時、絵でも音楽でも、人間の感覚が美しいものを美しいと感じるのは、私たちが大宇宙の波を受けて生まれてきた時の懐かしさを、身に受け継いでいるからではないかと思うのです。
 言葉本来の意味の「自然」に近づくには、人間存在は「意識」を持ってしまった。私は自分の心身を駆使しながら、女形という究極の「作品」を創る者として、「無意識と有意識」について、よく想像をめぐらせるのですが、不思議と、意識的に舞台をつくっても、よくない時があるのです。意識して、自分の意図どおりに演じられたはずが、お客さまには伝わっていなかったという場合です。
 無意識のうちに舞台が終わっていた、そんな時こそ好結果が出ます。具体的には、無意識の表現が知らず知らずにじむように、日常を意識的に、ちゃんと生きていく。それしかありません。本能や煩悩と格闘しながらのことで、容易ではありませんが(笑)。
 女形の肉体は、ある種の音符にたとえられます。私の魂ともうひとつの楽器である衣装などの手で、それを奏でることによって、ある印象が伝わるのです。絵であれば、二次元の白いキャンバスに彩色することによって、はるかな海や山や太陽が感じられる。キャンバスが肉体なら、稽古してきたことが彩色にあたるでしょうか。
 先日、下関公演の実行委員の一人で画家の升本猛さんが、私のダイビング姿をモチーフに「水底の輪舞」というすばらしい絵を描いてくださいました。いつも故郷下関の海や港などを描かれていますが、そこにくっきりと下関の海辺が感じられるのは、升本さんがキャンバスに心で絵具を動かしているからでしょう。
 美を求める人間の魂は残っても、銀河系宇宙の果てに私自身の芸が残るという確証はありません。ただ、残らないとあきらめて生きていくのは苦しいことだし、ひょっとしたら残るかもしれない、未来の誰かが受け取ってくれるかもしれないと祈って、前向きの姿勢で生きていくのがだいじだと考えています。
 日々を真剣に生きて、気がついたら人生の終局を迎えていた。それで充分です。あるいはその前に、踊れなくなるかもしれない。そうなったら、残った時間を淡々と生きていくだけです。

熱心な歌舞伎ファンとの再会を楽しみに

 自然は私に、いろいろなイメージを提示してくれます。もちろん自分も、自然の一部です。そんな自然と身近に触れながら舞台のことを考えられるのが、地方公演の醍醐味(だいごみ)です。
 たとえば熊本県山鹿の八千代座には20年近く通い続けていますけれども、お声のかかった頃はちょうど自然破壊が叫ばれて、加工品が出回り、日本古来の食や食文化がすたれかけた頃でしたから、心が地方に向いていたように思います。現地へ下見にうかがうことも決まった夏のある日、東京の楽屋に山鹿から大きなスイカが1ダースも届きました。皆で割ると、たちまち楽屋いっぱいに、幼い頃に海辺でスイカ割りをして食べたあの素朴な匂いが広がりました。
 別に私は環境問題をテーマにして踊っている役者ではなく、スイカにつられて山鹿へ向かったのでもありませんが(笑)、一回性の生命の中で現場に身をおいて物を考え、そこから色合いとか感情を紡ぎだして舞台に乗せて、お客さまに何かを受け取っていただきたいのです。
 下関では、おいしいフグも待っているし、関門海峡の波打ち際に建つ水族館の「海響館(かいきょうかん)」を訪ねれば海の「仲間たち」と出会える。何より、熱心な歌舞伎ファンの方々と再会できるのがうれしいです。やはり、人とのつながりが行動を起こす一番のエネルギーになります。
 下関は、実をいうと本来、出不精な私が一年に一回は出かけたい土地になってしまいました(笑)。

(※写真撮影地)p4=熊本城公演 p5=旧秋田商会ビル(南部町)入り口 p6上、p7、p8上、p9=同ビル館内
p6下=東京第一ホテル下関「満珠の間」 p8下=BTA提供 p10=あるかぽーと埠頭付近

2008年11月4日(火曜日)
坂東玉三郎 下関特別公演情報

 「しっとりしたものをじっくりと観ていただきたい」
 5月21日午後、下関市赤間町の東京第一ホテル下関で行なわれた11月4日特別公演の製作発表記者会見で、坂東玉三郎さんは、気品に満ちた滑らかな口調で語った。画面越しよりさらなる二枚目の登場に、会場には静寂と華やぎとが同居していた。日頃、雄弁闊達であろうメディア各社の記者たちも、なかなか質問の口火を切らずにいたのは、華やぎに息を飲むばかりだったからにちがいない。
 それをほぐしたのが同公演実行委員長、原和人さんの誠意あふれるあいさつであり、同委員の一人、升本猛さんのけれん味のない司会だった。
 坂東玉三郎さんは、もはや通いなれつつある下関の魅惑にふれる一方で、ひたすら舞踊そのものに思いを込めていることを強調した。そして「『雪』は女が冬の夜にはかなく、『葵(あおい)の上』は嫉妬に狂う女が激しく、『鐘ヶ岬』は桜の下で回想の恋に遊ぶ女がひたひたと舞う」のだと概略を述べた。
 海峡の街が色づき始める季節にゆかしく調和した三様の舞いが、一日千秋の思いで待たれる。

日時/2008年11月4日(火曜日)午後3時開演(開場は午後2時)
会場/下関市民会館 大ホール(下関市竹崎町4-5-1)
演目/『雪』『葵の上』『鐘ヶ岬』 三絃=富山清琴 箏=富山清仁
料金/特別席17,000円 S席13,000円 A席9,000円 B席6,000円
製作/松竹
主催・問合せ/坂東玉三郎特別公演下関市民実行委員 TEL:083・222・5674
共催/下関市文化振興財団
後援/山口県・下関市・下関市教育委員会

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風の正体 下関が生んだスターたち

文=福田 章(本誌・編集人)
撮影=橘野栄二

藤原義江・田中絹代・二村定一・林伊佐緒

 この海峡には、いくつもの風が重なっている。風見鶏さんも忙しかろう。いいえ兄さん、あんたこそ。いやいや私はこの5月、いくつもの芸風に吹かれて、幸せだった。

 何がそうさせるのか、この街はあまたの芸人やアーティストを生んだ。表現者の数だけ芸風がある、それ以上にある。目には見えねど、心遊ばせてくれる風に、いつの間にやら、私は吸い込まれていた。
 さっきの風見鶏は、海峡を見おろす丘の芝生に立っている。山側に白い3階建ての洋館がある。扉の札がいう。「ナポリの海で歌っています」。ふだんは無人の館。そういえば敷地と区切る門扉(もんぴ)も、一応は閉まっていた。館内は無人でも、誰かがこの時間に、ナポリの海に向かって歌っていても不思議はない。そう思わせる空気のゆらぎが、この丘の上にはある。
 携帯電話で、館の電話番号を鳴らした。ほどなく、お帽子を召した貴婦人が、芝生を横切って近づいてきた。どの時代のどの街にいるのか、わからなくなりかけていた私を、いよいよ夢幻の渦に巻き込む、優雅な足取りで。

藤原義江の魅力

大司節子さん(「藤原義江記念館」副館長)

 なんといっても自由奔放なところが藤原義江最大の魅力です。対談の録音が残っていますが、「アメリカでは日本語の歌詞を少々まちがえたって、わかりゃしねぇと言われた」などと、大らかそのもの。子供の時はとてもいたずらっ子だったらしく、「ピストル見せてやろうか」と言って、友だちに見せたのは、ピストル型のビスケットでした。義江がこの建物に住んだことはありません。一度くらい、住ませてあげたかったですね。

 〈この家は長崎に本拠をおく英国系商社ホームリンガー商会の宿舎で、N・B・リードが一人で住んでいた。彼は下関にある瓜生商会の総支配人をつとめている。〉(古川薫・著『漂泊者のアリア』より)
 館内でも帽子をとらない婦人に、聞く方も聞く方だが、その理由を聞いていた。
 「とてもお似合いですが、ずっと被ってらっしゃるんですか?」
 「髪の毛がバサバサですの」
 秘せられた内容はともかく、本質から逃げないお話しぶりが、芸の王道に通じているように思えた。とくにこの館の主だったネール・ブロディ・リード氏の息子として110年前に生まれたテナー歌手、藤原義江の豪胆華麗な人生航路に。
 今、その歌声を聴いている。入館者があると、帽子の婦人がすぐにCDをかけてくれるのだ。惹句(じゃっく)も含めると『最新復刻技術で甦る驚異のデジタルSPサウンド 女ごころの唄 藤原義江イン・デジタル』というものである。
 中学校で習ったり、昔スパゲッティのテレビCMで聴いたような「サンタ・ルチア」「帰れソレントへ」「オー・ソレ・ミオ」などは、どう見ても聴いても、日本人離れした天賦(てんぷ)の「陽声」と映る。ナポリで歌われた音符が、飲み干したワインのボトルに納まって、コルク栓で軽く呼吸しながら、海峡の波打ち際に漂着した。まるで帰郷の喜びに踊るような歌声ではないか。
 CDは今、手元にもある。行き交う船々を横目に壇之浦付近を走り、大仰(おおぎょう)な気分で関門橋を渡り、遠い島を幻みたいに望みつつ山陰海岸を北上する時、この歌声を友にできる。優れた芸術作品は、受け手を刹那(せつな)、今いる以外のどこかへ運んでくれる。
 この銀の円盤には26曲も入っていて、後半の「荒城の月」「波浮(はぶ)の港」などは、この人の声でなければ、気も月も船も沈みそうな伝統的日本の楽曲。芸幅の広いダンナである。
 〈スコットランドに生まれた彼(筆者注=父のリード)の墓標が、東経130度線が走る本州最西端下関市の一隅で海風に吹かれている。(中略)源平合戦や明治維新の舞台として、血が流れ、砲煙が渦巻いた海峡も、今は嘘のように静かだ。(中略)生涯を独身で通したが下関の花街で知り合った女性に、子供を生ませた。その男の子は後年、オペラ歌手「藤原義江」として世界的にその名を馳せたが、親子関係は決して幸せなものではなかった。リードはその母と子を捨てたのである。〉(前掲書)
 花街とは、現在の唐戸商店街からほど近い旧・稲荷町(現在は赤間町の一部)のことである。声は骨格が基盤だとすれば、藤原義江の無限の楽才の大半は父親譲りと見がちだが、母親の坂田キクは筑前琵琶の名手だった。声もよかった。
 けれど、人のDNAをどっちからどうと言っても、的中はしまい。人はすべて、両親からの混成である。あるいは生まれ落ちた義江の思いは、いずれ幼くして母とも別れさせられたため、その母恋う熱情が百花の恋愛に変換され、夥(おびただ)しい音楽に結実したのかもしれない。
 なにしろ、少年時代から流転が始まっていた。キクが流れた先の大分県杵築では、座興で歌ったりした。「日本の軍歌を歌う碧眼(へきがん)の少年」を、酔客らは面白がった。人に楽しんでもらうことが自分はいちばん楽しい。生粋のエンタテイナー気質はどこにいても培われ、いつしかそのことを自ら確認し、耐えて忍んで、チャンスを待つ。
 義江もそんな風であったろうことを、今流れている「出船の港」が想像させる。♪ドンとドンとドンと波のり越えて〜 なんだか苦労が身につかないような、勢い余った剽軽(ひょうきん)な歌いっぷり。まだいくらでも、やってやるぜ。そんなサービス精神が声に、記念館の壁に掛かった男惚れする顔にも濃縮している。壁には母キクの写真も掛かり、その前に愛用の琵琶が無造作に飾ってある。今にも鳴りだしそうに。
 流転の息子と父親が再会した。大正8年(1919)、オペラの勉強にイタリアへ行くことを決めた後の3日間、義江は、当時リードが暮らしていた門司で過ごした。五十歳ほどの父親が二十歳の息子の髭を剃刀(かみそり)でガリガリ剃(そ)ってやるという場面もあった。長年はぐれていた肉親どうしの情愛を、芸能の神様が取り戻してくれた図だった。おいしい料理と楽しい時間を外に移そうと思えば、旧下関駅前にあった鉄道省直営の「山陽ホテル」へ、船でひと渡りすればよかった。

(写真)藤原義江記念館(別名・紅葉館)への入り口。入館無料だが見学は必ず要予約。TEL:083-234-4015

田中絹代の魅力

河波茅子さん(「NPO法人田中絹代メモリアル協会」事務局長)

 田中絹代は近代文化の先駆けとなった映画に一生を捧げた女優です。67歳で亡くなるまで250本余りの映画に出て、6本の監督作品も残しています。小柄な体からは想像しがたいような生命力あふれる演技とその筋の通った生き方は、現代女性にも多くのことを訴えかけてきます。絹代の親族でもある小林正樹映画監督から寄贈された約600点の遺品は今、下関市立美術館に収蔵されています。来年2009年は生誕100年、多くの方々に絹代の輝かしい功績をお伝えしていきたいです。

 山陽ホテルの建物は、今も残っている。下関警察署の向かいだ。旧ホテルを右に、警察署を左に見ると、突き当たりに本州最西端ターミナルの旧下関駅があった。裏は海峡。関門橋はおろか、関門トンネルもない時代、またかつて領有していた朝鮮半島への最重要な窓口だった時代のこと。この街とこの駅とこの港のターミナル性は、格段に高かったはずである。何事もここから始まるのだから、ここで交わる者も多かった。
 長門市仙崎出身で短い後半生を下関で過ごした童謡詩人、金子みすゞは、所用で九州へ渡る途上にあった詩業の恩人、西條八十(やそ)と昭和2年(1927)の夏、わずか5分、この駅で最初で最後の面会を果たしている。〈連絡船に乗りうつる時、彼女は群集の中でしばらく白いハンケチを振っていたが、間もなく姿は混雑の中に消え去った。〉(西條八十「下ノ関の一夜」)
 今はない駅舎を幻視しつつ、今も変わらない海峡を眺めている。
 やはりここから出発して、銀幕の大スターになった田中絹代の年譜をめくる。たまたま先ほどの昭和2年に目をとめると、『恥しい夢』が出世作になったとある。下関市丸山町で4男4女の末子として生まれたが、家業が倒産して生活貧窮し7歳の時、大阪へ移住。その大阪で筑前琵琶を習い、千日前楽天地の舞台で活躍して、女優への意志を固めた。
 私は、絹代が大阪へ移るまで1年と数カ月だけ通った王江(おうえ)小学校を訪ねた。全国で2番目の支店という日銀下関支店の真裏の階段をのぼるとすぐだ。概して、下関市街地の小学校は丘の上にある。どう転んでも、下関は丘の街。つまりは、港を見おろす丘の街なのだ。何ものかが、どこかへ誘う気配がある。
 昭和13年(1938)に建て替わったという校舎の天井を見あげれば、洒脱(しゃだつ)なレリーフが。人が歩く階段の中央部はすり減りまくって、へこんでいる。図書室には、児童たちが大先輩の研究発表をした作品が並んでいた。
 「田中絹代メモリアル協会」発行の冊子『田中絹代の世界』によると〈それまでスター女優に絶対条件と思われてきた格別の美人性に対し、嫌味のないありふれた愛らしさと、ひたむきに演ずるアピール性が何人かの監督に認められ、その魅力が映画を通じて、身近な清純派ヒロインという親近感につながり、大衆の爆発的人気を呼ぶことになった。初めて思春期スターというジャンルを確立した。〉
 昭和6年(1931)、日本初のトーキー(発声)映画『マダムと女房』にも主演した。初のトーキーなのに、絹代には下関訛(なまり)りがあったと言われ、しかしそれが無垢(むく)な甘さになって幸いした。こんどは私、彦島江の浦町の同協会にいて、そのビデオを観せてもらっているところ。若い女性の声はそれだけで最高の楽器だという考えは私にもあるが、田中絹代の一途な眼の光は、それ以上の武器だと思った。実際、そのように生きた。
 そしてその一途さは、目の前にいる事務局長の河波茅子さんとも重なる。不世出の大スターの功績をしのび、遺品を並べる行き場(記念館)を求めて奔走の日々。しばし私も現実に還り、元は米屋だったという滋味深い協会の建物を出ると、真ん前に、本誌・創刊号89ページに大写しだったタバコ屋さんがあった。

(写真)義江の母、坂田キクは花街の稲荷町の検番に籍をおく琵琶芸者だった。明治中期から博多周辺で流行し、下関にも伝わった筑前琵琶は音色がやわらかく、女性奏者によく馴染んだ。スコットランド人リードも、その響きに魅了されたのだろうか。
(写真)〈僕は世界各国で集めたいろいろな色や模様の匙(さじ)をたくさん持っている。三百個以上にもなったろうか。それらの一つ一つにそれぞれの女性との交遊が刻まれているといってもいい。今ではすっかり忘れて、顔も思い出せぬ行きずりのひともあるし、なつかしいのも憎いのもある。そして匙は年ごとに少しずつさびていく。〉藤原義江自伝『流転七十五年 オペラと恋の半生』より。

(写真)下関市立王江小学校では、昨年度卒業の6年生が「総合学習」の一環として、半年がかりで田中絹代の生き方やエピソードを学んだ。その成果物が図書室に展示されている。こうして郷土の先達の魂が次代に受け継がれ、住民の誇りとなる。
(写真)田中絹代が昭和24年の渡米時に購入したというハイヒール。絹代の身長は150センチほどで、これは21.5センチ。緑のサングラスと赤いハイヒールでの帰国第一声は「ハロー」。待ち受けた報道陣は、ぶっ飛んだのだった。(田中絹代メモリアル協会提供)

(写真)王江小学校の階段は、もう若くない大人が真ん中を通るには勇気がいるほど、角がとれている。

二村定一の魅力

石川 秀さん(「二村定一の会」「蓄音機倶楽部」主宰)

 二村定一はレコード歌手第1号です。昔はレコード会社が最初にレコードをつくって売るのではなく、本人が巷で流すなどして人気を得たあと初めてレコード化されていましたが、定一はそれを逆転させたのです。譜面が読めたので、音楽評論家の堀内敬三に重用されたようですね。エノケンとの「ピエル・ブリヤント」は定一の方が最初、格上だったのです。晩年は不遇でしたが、その天才ぶりはもっと広く知られていいと思います。

 進取の気象というものが、かつてこの街には、より濃厚に漂っていたと思われる。この街を出た表現者たちがデビューを飾ると、後に「○○第1号」との称号が付いてまわるのだった。
 藤原義江は、ビクターが「世界の超一流芸術家」として認めた演奏家のレコード「赤盤」第1号、田中絹代は「トーキー女優第1号」。ついでに戦後俳優として初の訪米も果たし、帰国後のパレードにおいては、おそらく、女性の投げキッス第1号。これは投げ売りというほどやり過ぎちゃって、戦後浅い国情では、たちまち物議を醸すことになったが、これくらい図に乗らなければ芸人ではないと、私には思える。
 義江より2年後に生まれた二村定一は「流行歌手第1号」。昭和4年(1929)に「君恋し」が大ヒット。私なども、あれはフランク永井専有の歌だと思い込んでいたが、本家は下関市中之町で生まれた定一だった。
 二村定一にも記念館らしき建物はない。しかし記念館の役目を果たしている人物がいる。上田中町でカメラ店を経営する石川秀(ひいず)さんが、埋もれていた二村定一の足跡を掘り起こした。20代前半に勤めていた唐戸のカメラ店で、ラジオから奇妙な歌い方の「君恋し」が聞こえてきた。そばにいた人が「定ちゃんも偉くなったものね」と。そこから足跡探しが始まった。
 狭いカメラ店内で、その変な歌い方というのを聴かせていただき、石川さんのてきぱきと筋道立てた説明にふれるうち、その時お借りした自作8ミリ映画のDVD『二村定一 幽愁の歌声』の映像と音声につながっていく。映画などで手紙を読んでいるシーンに、差出人の声がかぶさっていくような感じだと思ってほしい(無理?)。
 と、映画は1990年製作だから、昔さ加減が微妙な唐戸が出てくる。それでいて切ない。撮った瞬間から「過去」に後退する写真も映画も切ないものだが、定一の次第に潮が引くような一生が、その印象に輪をかけるのかもしれない。道を歩く時も大声で歌い、周囲からは現在では差別用語の4文字で呼ばれた少年は、のちに浅草で大活躍して榎本健一と名コンビを組んだ。
 カメラ店で石川さんが「林伊佐緒も下関出身ですよ」と示唆してくれた時、それまでセピア色っぽかった私の感覚が、にわかに天然色を帯びた。その人なら、昭和33年生まれの私でもよく知っている。FMの作曲家別の懐メロ番組などでも必ず取り上げられるから。これまた「日本初のシンガーソングライター」。下関市東部、山陽小野田市との境に近い王喜がその故郷だった。王喜公民館と母校の小学校へ。
 昭和12年(1937)、「もしも月給が上がったら」がヒットした。あの全編ユーモアと希望に満ちた曲が林伊佐緒の曲と知り、気持ちがいっそう、活気づいた。この明るい音楽こそ、本州西端の港町生まれにふさわしいと感じているところへ、お借りしたCDから、本人歌唱の「長崎の女」が流れてくる。春日八郎より数段まろやかで、包み込むようなノビのある声。
 これは舞台こそ長崎だが、スケールの大きさとロマンの深さは、確かにここ下関の、眼前に展開する風景に通じていると確信した。カラオケで「長崎は今日も雨だった」ばかり歌っていないで、永遠の名曲「長崎の女」を勉強しなければと自戒している初夏の夕暮れである。

(写真)針の重さと雑音の味と。蓄音機の質感はある年代以上の者を郷愁に誘う。二村定一歌う「君恋し」は、浅草オペラ仕込みの直線的歌唱法が聴きどころ。レコードは昔懐かしい78回転である。(石川秀氏提供)

(写真)美声で鳴らした林伊佐緒は母校・王喜小学校校歌も作曲した。その記念碑が同校入り口に建っている。付近に生家跡の碑と資料を展示した王喜公民館がある。


 つねに役柄と心中するように演じ、48歳で主演した『楢山節考』では差し歯を折り、65歳で出演した『サンダカン八番娼館・望郷』では「老醜」までも武器にした田中絹代は、本人曰く「映画と結婚したのです」。天下のスターはいくつもの「絹代御殿」を建てた。松竹の大船撮影所新設との関係で、鎌倉山や三浦半島周辺が多かった。昭和11年(1936)、最初に建てた鎌倉山旭ケ丘の御殿の隣には、近衛文麿公爵と藤原義江の別邸があった。
 私はただ、下関出身の芸人たちの人生のかけらに、作品を享受しながらそれぞれ別個に触れようとしただけなのに、何かの配剤で時空がつながっていたことを悟る。ある種、病的なプレイボーイだった藤原義江が「ナポリの海で歌っている」ことになっているのは、そこが妻だった「あき子」との思い出の街だからである。また、同じイタリアのベニスが、田中絹代にとっての、最後まで公にしなかった恋愛の成就地であるように、映画監督・新藤兼人は『小説 田中絹代』に書いている。同書のこんな記述が目を引いた。
 〈鎌倉山にながく住んでいたのは湘南の明るい風土が気性に合ったからである。生まれ育った下関地方の開放的な花崗岩土壌と似ていた。〉
 迂闊(うかつ)な私は、風景とは地面や水面より上だけを指すものと思っていたのだが、そうではなかった。望郷は誰の心にもあるものの、この本州最西端の土壌に立った時の風にまかせて旅立ちたくなる気持ちとすべての表現者がめざす「その向こうにあるもの」の表現とは、コインの表と裏の関係にあるのだろう。
 目に見えない地層の奥深くまで芸のDNAが畳み込まれたこの街には、いつなんどき魔性の花が咲きだしても不思議はない。
 それまで重なり合い、もつれあっていた海風がひととき、やんだ。藤原義江記念館前庭の、おそらく義江本人をあしらった風見鶏が、コトリと音を立てた。

藤原義江(ふじわら・よしえ)
 1898〜1976 日本を代表するテノール歌手。本格的オペラを日本に根づかせ、藤原歌劇団を創設した。
田中絹代(たなか・きぬよ)
 1909〜77 黎明期から日本映画界を支えた大女優。その魅力はどの監督にも愛され、出演映画は約250本に及ぶ。
二村定一(ふたむら・ていいち)
 1900〜48 昭和初期を代表するレコード歌手。榎本健一と立ち上げたピエル・ブリアントは浅草で大人気となった。
林伊佐緒(はやし・いさお)
 1912〜95 歌手、作曲家。昭和11年入社したキングレコードに終生専属。
 日本歌手協会4代目会長。

主な参考資料

『漂泊者のアリア』(古川薫/藤原義江記念館版)
『流転七十五年 オペラと恋の半生』(藤原義江/日本図書センター)
『藤原義江/藤原義江記念館紅葉館=x(同館)
『私の履歴書 女優の運命』(田中絹代他/日経ビジネス人文庫)
『小説 田中絹代』(新藤兼人/読売新聞社)
『図録 田中絹代の世界』(田中絹代メモリアル協会)
『しものせき・人・物語』(山口新聞社)

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平家終焉の悲哀を今に伝える上臈参拝
海峡の潮流が繋いだ、たおやめ芸の伝承

取材・文=野村ゆき 撮影=橘野栄二

下関で生まれ育った関っ子≠ノよって受け継がれてきた伝統行事のひとつが、
毎年5月3日に行なわれる先帝(せんてい)祭の上臈(じょうろう)参拝である。
遥か遠い昔の平家物語の悲話が途絶えることなく今も生き、
憧憬の的となった芸道の神髄を、祭りにかかわる人々を通して探る。

(写真)当日の朝5時から始まる支度。水おしろいをつけ、目の輪郭を描き、紅をさす。一番から四番までの太夫と違い、傘留太夫の化粧は目元を強調し、きりっと大人びた雰囲気に仕上げるという。

艶やかな太夫姿に秘められた
安徳幼帝へのレクイエム

 先帝祭の起源は、今から約820年前。源平合戦で敗れた平家とともに、8歳で壇之浦の海に沈んだ安徳天皇の霊を慰めるため、生き残った平家の女官たちが幼帝の命日に正装して参拝したという悲話に因んでいる。
 関門海峡を望む小高い丘に建つ赤間神宮が、幼帝の御霊を祀る先帝祭の舞台。このときだけ境内に高さ2メートル、長さ22メートルに及ぶ朱塗りの橋「天橋(てんきょう)」が架かり、大勢の参拝客が見上げるなか、艶やかな衣装をまとった5人の太夫が独特の足さばき「外八文字」を披露しながら渡っていく。先帝祭の最大の見せ場、上臈参拝である。なかでも人々の注目をひときわ集めていたのが、参拝行列の最後を飾る傘留(かさどめ)太夫だ。
 漆黒の打掛の袖を翼のようにひるがえして半歩下がると、まっすぐ前を見据えたまま膝を折って上半身を大きく傾け、袖と裾で振り払うように前へと進む。左、右、左…一歩ずつ力強く踏む「外八文字」は、優雅というよりも、毅然。「私には行くべきところがある」と覚悟を決めたような振る舞いで、たやすく人を寄せ付けない雰囲気すら感じさせる。
 「いやぁ、綺麗ねぇ…」
 「最後の太夫さん、所作も際立っちょるわ」
 この大役を今年任されたのは、下関で生まれ育った松田真生(まお)さん。20歳の若さながら、花柳七広佳(ななひろか)の名を持つ舞踊歴18年のベテラン。幼い頃に母親・ 亜子(あこ)さんの太夫姿を見て「いつか私も母のような太夫に」と憧れ、日舞の稽古に励んできた。太夫になれるのは名取りのみ、というのが42年前に下関舞踊協会(現会長:坂東三嘉寿美さん)が祭りに携わるようになってからの習わし。協会に所属する坂東流・花柳流・猿若流・藤間流の4流派約300人の中から、えり抜きの踊り手5人に絞りこまれる。希望すれば誰でもなれるわけではないのだ。
 「参拝は、お辞儀の仕方ひとつをとっても踊りにはないお作法があります。太夫が従える稚児、禿(かむろ)、警固、官女の役をひと通りお務めし、神事の重みとお作法を身体で覚えこみ、ようやくなれるのが太夫。特に最後の傘留太夫は、彼女だけ天皇家の紋が入った文箱(ふばこ)を持つ禿が加わり、ほかの太夫とは違う格の高さも表現できなければなりません。重さ25キロにもなる衣装とかつらを着けても涼しげな顔で振る舞い、意識しなくても所作の指先まで心≠ェ宿る。そういう段階まで芸を磨けてからでないと任せるわけにはいかないんです」
 きっぱりと強い口調でこう語るのは、真生さんを太夫に育てた師匠・花柳佳寿広(かずひろ)さん。その言葉をかみしめるように、傘留太夫の大役を果たしたばかりの真生さんも清々しい表情で上臈参拝中の自分をこう振り返る。
 「天橋を渡っている間ずっと、その先にある安徳天皇をお祀りしている神殿しか目に入らないくらい、無意識に役に入っていて…。参拝を無事に終えて関門海峡の景色が目に飛び込んできた瞬間、ようやく我に返った感じ(笑)。晴れ渡った海の姿を見て、私の思いがちゃんと天に届いたような気がしてほっとしました」

(写真)外八文字を披露しながら、意を決したかのように「天橋」を渡る傘留太夫。昇り鯉のまな板帯など、衣装の文様にも格の高さが表れる。背景には安徳天皇を偲び、竜宮城をイメージして建てられた「水天門」、その向こうに関門海峡の景色が広がる。
(写真)安徳天皇を祀る神殿に、祈りを捧げる太夫。空を仰ぎ見るように両手を広げ、音をたてずに「忍び手」をうつ。
澄みきった空気と柔らかい陽射しが太夫の存在感を浮かびあがらせ、この世のものとは思えない独特の雰囲気に包まれる。

伝えずにはいられない
それが関門の潮流パワー

 母親の亜子さんも「稚児として初めて天橋を渡った6歳のときは、ただうれしそうにしていたこの子が…。私が傘留太夫をやらせていただいたときより、堂々としていたんじゃないかしら」と目をうるませた。
 太夫をはじめとする、上臈参拝の一行は全員で31人。介添えなどの手伝いを含めると、祭り本番を支える舞踊協会の奉仕者たちの数は50人を上回る。本番の1カ月前から何度も合同練習を重ね、当日も直前まで、太夫の真生さん自ら「かつら、きつくない?」と稚児や禿役の子どもたちを気にかけ、 佳寿広(かずひろ)さんら師匠陣も「ほら、背筋をシャンとして」と流派の区別なくピシャリと注意を促す。流派も世代も違う踊り手たちが祭りのために、ここまで結束するケースは珍しいかも知れない。真生さん自身も、傘留太夫に決まる直前の2年間、下関を離れて東京で短大生活を過ごし、そのことを実感したそうだ。
 「下関を離れるまでわからなかったけれど、小学校で教わった平家物語の舞台、関門海峡がすぐ近くにあって…。歴史を常に身近に感じて育ったこと、だから人と人が強く結ばれていることに、初めて気づいたんです。そういう思いも今回の太夫姿を通して大勢の人に伝わっていたら、うれしいんですけど」
 平家物語の朗読会を赤間神宮で行なうなど、下関文化の伝承に長年携わっている重鎮のひとり、野村忠司さんは「それが関っ子°C質」なのだと教えてくれた。
 「平家終焉、巌流島の決戦…。関門海峡の潮流が、さまざまな歴史の流転に関わってきた。一日に何度も潮の向きを変え、澱むことなく流れ続ける海峡は、人生そのもの。私もそうですが、関門海峡を眺めて育つと、そのことを人に伝えずにはいられなくなるんですよ。見る人を惹きつけてしまう磁場のような力が、この海峡にはあるのかも知れません」
 遥か昔に平家の女官によって始まった参拝を、現在の舞踊協会が受け継ぐまで絶やさずに伝えてきたのは、下関に戦後まであったとされる遊郭の名もなき遊女たち。一説には、平家の女官たちが遊女として命をつないだのが、廓(くるわ)の起源だともいわれている。時代と海峡の潮流に運命を翻弄された女官たちに、後の遊女たちは自らの運命を重ね合わせ、上臈参拝を女の哀しみを昇華させる禊(みそ)ぎの儀式のように捉えていたのかも知れない・・・という想像は、考えすぎだろうか。
 真相はともかく、太平洋戦争の下関空襲で、ほとんどの遊郭と赤間神宮も焼失。往事の面影は、江戸時代に大きな遊郭街があった「稲荷町」の名を伝える石碑と、その傍にある稲荷神社の玉垣に大阪楼という廓の名が、かろうじて読み取れるくらいになってしまった。
 「戦時中も執り行われてきた神事ですが、遊郭がなくなってしばらく、祭りの精神性の伝承を危ぶんだ時期もあったんです。上臈参拝を県指定無形文化財という芸の域にまで高めたのは、舞踊協会のみなさんによる真心のこもったご奉仕のおかげ。今年の太夫さんも立派に務めてくださいました」
 赤間神宮の禰宜(ねぎ)で、歴代の太夫たちに参拝作法の指導にあたってきた水野大直(もとなお)さんの言葉を聞きながら、上臈参拝はただ進化をとげたのではなく、女性たちの心から心へ受け継がれてゆくなかで真価を纏(まと)ったのだと感じた。

(写真)支度中に真生さんの様子を気遣う母親の亜子さんも19歳で傘留太夫を経験。「まさか同じ衣装に親子で袖を通せることになるなんて、お導きかしらねぇ」。
(写真)5人の太夫それぞれ、打掛と帯の色柄、かつらの笄(こうがい)も異なる。3時間がかりの支度を終えた真生さんの艶姿に師匠・花柳佳寿広さんは目を細めながらも、「ほら、またいつものクセが出ちょるよ」。温もりのなかにも厳しさを忘れない指導が本番ぎりぎりまで続く。
(写真)赤間神宮で約1カ月かけて行われる合同練習。参拝の作法を徹底的に叩き込まれるほか、太夫は外八文字の練習も重ねなければならない。「もっと前を見て」「そこはゆっくり」。練習中ずっと稽古場に師匠たちの厳しい指摘が飛び交い、ぴりっと張りつめた緊張感が漂う。
(写真)赤間神宮まで、約3キロの道のりを太夫が稚児や禿などを引き連れ練り歩く上臈道中。道中の4カ所で高下駄姿の「外八文字」を披露する。沿道は見物客でぎっしり埋まり、太夫に向かって両手で拝むお年寄りの姿も。
(写真)かつて大きな遊郭街があった稲荷町の名を伝える石碑。昭和20年の下関空襲ですべてを焼失し、町の面影は消えてしまった。


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腕とアイデアの粋が生きる
芸達者な逸品

撮影=橘野栄二

「古串屋」のうに懐石(全10品 1万3650円〜)

 キメ細かい舌触りと上品な甘味で知られる、山口県北浦産赤うに=Bその味を存分に引き出したアイデア料理が味わえる。生うに、うに御飯はもちろん、 うに真丈(しんじょう)、茶碗蒸し、バター焼き、グラタンまで。「季節の魚や野菜など、ほかの素材との組み合わせで旨味も甘味も変わる。うにの持ち味でもあり、難しさでもありますね」と六代目の神在邦幸さんが柔和に語る。
 もとは通常の懐石料理の一品として出していたが、馴染み客の要望で先代がうに尽くしのフルコースを考案。邦幸さんの代になり、数種類の天然だしとオリジナルブレンドの醤油を使い分けるなど、調理方法はさらに進化した。古くは毛利藩のお抱えだった老舗料亭。懐かしさ漂うお座敷の佇まいも、味の至芸ぶりを深めている。

◆古串屋(こぐしや)

下関市長府南之町5-15 TEL:083-245-0051
11時30分〜14時、16時30分〜19時オーダーストップ
不定休
「たかせ」の瓦そば(1人前 1050円)

 時は明治、西南の役にて薩軍の兵士たちは長期にわたる野戦の合間、瓦に肉や野草をのせて焼いて食したとか。店の創始者、高瀬慎一さんがそれをヒントに昭和36年頃、瓦を使う野趣はそのまま、色鮮やかな茶そばを焼いて、下から錦糸卵、牛肉、ネギ、のり、レモン、もみじおろしと、味と彩りの変化と調和を意識して完成させた、生粋のご当地メニューである。つゆも温かいものが出てくる。
 瓦に接した部分はパリパリ状態。焦げた茶そばなんて、やはり異次元的味覚といえる。高熱で熱するため、瓦はいくらあっても足りないくらいだが、「うちの瓦を提供したい」というファンからの申し出も後を絶たないらしい。味わうにつけ、こんど自宅でやってみようか、何でも焼いてやろうかと、芸ごころをくすぐる一品だ。

◆元祖瓦そば たかせ

下関市豊浦町大字川棚5437 TEL:083-772-2680
11時〜21時(20時30分オーダーストップ)
本館/木曜休み 別館/水曜休み 新館/火曜休み

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庶民文化史研究の達人
町田忍の下関 銭湯めぐり + レトロ徘徊記

撮影=橘野栄二

町田 忍(まちだ・しのぶ)

昭和25年(1950)、東京生まれ。全国各地、見落とされがちな風俗意匠を研究する庶民文化史研究家。著書は『昭和なつかし図鑑』(講談社文庫)、『懐かしの昭和30年代』(扶桑社)、『納豆大全』(角川文庫)など50冊。銭湯めぐりの集大成ともいうべき近著『銭湯遺産』(戎光祥出版)も好評。現在は庶民文化研究所を設立。

「銭湯は見るものではなく入るものである」という信念のもと、
今回も下関にやって来た庶民文化の星、町田忍さん。
ふだん見過ごしている銭湯のディテール観察力と
素通りしそうな街角でレトロな「獲物」を発見する
嗅覚が冴えわたった。狛犬コレクションのオマケ付き。

 私の手元にある、全国の浴場組合発行による『全国浴場銘鑑』によると昭和43年度当時における下関市内には、59軒もの銭湯が営業していたことがわかった。現在はその4分の1ほどが営業を続けている。ちなみに昭和43年度が全国における銭湯の営業数が最大であった年度である。

(写真)「竹乃湯」の男湯にある年代ものの注意書きは手書きだ。
(写真)「喜楽湯」ののれん。最近はこのようにコマーシャル入りが多い。
(写真)長府の「しのはらゴフク店」で見つけた「福助」のホーロー看板。右は戦前、左は戦後のもの。

(写真)「喜楽湯」(入江町7-13)のお宝! 昭和30年代製と思われる円型傘入れ。 型も傘を広げたようなデザインとなっている。
(写真)「竹乃湯」(上田中町8-12-4)の内部は創業時からのものではなく、何回か改装されているものの、天井は当初の姿のままである。中央に四角い湯気抜きの穴がある。


下関 銭湯めぐり
弾薬庫跡地で平和の煙をあげる
竹乃湯

 今回の下関における銭湯探訪のスタートは、丘の上の上田中町にある「竹乃湯」さんだ。外観は妻入り三角屋根で入口両脇がモザイクタイル仕上げ。いたってシンプルな様式となっている。妻部分にかすかに屋号の「竹乃湯」という文字が読みとれる。
 右側が男性、ドアを開けると定番の番台があるが、ここのは少々構造がユニークで番台の下が下駄箱となっている。かつて同系の番台を北海道小樽の銭湯でも見かけた。かつての北前船コースと関係でもあるのだろうか。女将さんの河村良子さんによると、この建物は昭和26年築で、同28年に経営を引き継いだという。
 それまでは、薬の膏薬を扱う仕事をしていたが、ペニシリンなど新薬が主流となってきたために、新しい仕事として銭湯を始めた。戦前はこの付近には兵舎があり、ここは当時は弾薬庫のあった場所だとか。戦後になると市営住宅が60軒ほど建ち、多くのお客さんで賑わったそうだ。
 内部は木造で、一部美しいベージュやエメラルドグリーンのペンキが塗られており、なかなかの仕上がりとなっていた。実に色のバランスが気に入った、と思ったら、良子さんのご主人の敏和さんが奥から出て来てくれて、「私が色の配合を研究して出した色ですから」とのこと。
 脱衣用のロッカーも漢数字入り。「一」「二十」、そして再び一から始まる扉には隅に「キ」の小さな文字が入っているが、この「キ」の意味は謎だという。
 次に脱衣場の男女境にある大きな鏡の上部に「美乃屋」という広告文字が入っている。
 女将さんによると、大阪万博のころ(1970年)単身全国の銭湯を訪ねて、自分で近所のお店の広告を取り、その店の広告文字を鏡などに記入することを職業としていた京都の札木さんという人が書いたものだという。現在でもこの「美乃屋」さんは、近所で和菓子屋さんを営んでいる。かつてテレビなどの発達していない時代、銭湯は多くの人々が出入りする場であり、広告の場としても、うってつけのものだったのだ。
 竹乃湯さんにも昭和30年代には浴室に風景のペンキ絵があったという。実はこの絵も近所の商店からの広告料により無料で描かれていたのであり、前出の札木さんという方の営業方法と似ている点が、興味深い。またかつての映画全盛時代には、映画のポスターも貼られていたとのこと。
 さて浴室を見てみよう。ここは後年改装され近代的設備となっている。唯一天井の湯気抜きが、中心に四角く空いている。「唐傘天井」と呼ばれている構造に近いのが目についた。
 女将さんの「昔出ていった人が帰省でもどってきた時に入りに来てくれるのがうれしくて」という言葉が印象的だった。

明治期築と思われる風格
喜楽湯

 入江町の「喜楽湯」さんは、前出の竹乃湯さんと比べると広い道路と面している。しかし3000軒ほどの全国の銭湯巡りをしているこの私から見ると、外観だけでも、すでにポイントの高い銭湯といえるのだ。下見板張りに淡いエメラルドグリーンのペンキの塗られた外観。よく地方を旅行してこの手の保存建築に出合うことがあるが、かなりの割合で明治期築のものが多いからだ。入口は一段低くなっており、上部軒下に三角型の装飾板がある。
 現在のご主人、勝目良枝さんの父親が昭和23年に買い取り、母親が始めたとのこと。ご主人曰く「おそらく建物は100年ほどはたっているでしょう」とのこと。もしそうだとすると私が外観を見て予測した明治期築の可能性も、まちがいではなかったことになる。幸運なことに、先の大戦の空襲も前の道の向かい側までが被害にあったものの、喜楽湯さんは免れたという。
 天井は格子模様で、脱衣ロッカーは、これまたエメラルドグリーンだ。どうやら前出の竹乃湯さんにしても、喜楽湯さんしかり、エメラルドグリーンがお好きらしい。
 浴室に入る扉は風寄けのためと思われる、突き出た構造になっているのが珍しい。浴室は後年改装されサウナも付いている。また、下関の銭湯は、カランの下に桶置きの台が付いていることも多く、ここもそのようになっていた。
 2階部分は借間となっており、ご夫婦は近所から通っているとのこと。
 そんな銭湯の湯船にどっぷりと浸かっていると、それぞれの銭湯ごと、人間と同じような人生があるのではないかと強く感じた。



レトロ徘徊記「長府篇」

 冒頭から、ここだけの話だが、今回の下関探訪地のリストには、本誌編集担当者によると長府は入っていなかった。なぜならば長府は「城下町」という観光の顔もあり、あまり観光地へは行かない私にとって、興味が薄いエリアと思われていたからだった。今回の長府巡りは、私から是非という希望があり、やってきたという経緯があった。
 それはともかく、長府は下関市街地から北東へ約8キロほどの所にあり、長府毛利藩の城下町であった。
 私は常日頃、観光地へ行っても、必ず脇道などに入り込んで、色々なものを発見している。今回も早々のっけから、大きなホーロー看板のあるモルタルの建物を発見した。ここは現在でもペンキなどを扱う会社だという。会社の人によると、現在商店街の町おこしとして、何軒かのお店の内に懐かしい昭和の商品などを並べて、通る人に楽しんでもらうようにしているとのこと。
 それを聞いてこの付近を歩くと、確かにそんな店が目についた。「めがね工房ノエル」の一色優也さんは古い検眼道具やレトロなカメラを並べていた。ちょうどよいのでこの付近を色々と案内していただくことにした。地元の人の情報ほどたよりになるものはない。
 中浜市場は、そのまま昭和30年代にタイムスリップできる、今となっては貴重な空間で、活気があるのが気に入った。
 西本家具店さんには、間口の広いショーウインドウを利用したレトロなお茶の間があり、思わず上って座りこんでしまった。
 この号が出た頃には、そんなレトロな企画も、もっと充実しているだろうと思う。城下町に加味された昭和レトロの顔。また再び、この商店街を歩いてみたい。

(写真)長府ではレトロな雰囲気があちこちに再現されている。
(写真)「めがね工房ノエル」の店頭にも、レトロなカメラが並ぶ。
(写真)「中浜市場」に入り込むと、そこは活気あふれる商店街。見知らぬ人にも気軽に声をかけてくれる楽しい空間が広がる。
(写真)既にアートと化しているような錆びたトタンの家屋を発見して、思わずパシャ! 昔は店舗兼住宅で荒物屋だったらしい。
(写真)「西本家具店」の昭和風四畳半にて、しばしくつろぐ。

吠(ほ)えない、咬(か)まれない、ありがたい!
下関の狛犬さまたち

狛犬写真=町田 忍

 私が狛犬に興味をもったのは、大学2年の古美術研究のゼミのテーマで、狛犬の研究をしたことに始まる。
 狛犬は全国どこへ行ってもあるし、年代も古い。そのデザインも多種多様で、奥が深く、いわば知的遊びということからしても、興味深いものがある。
 ところで、下関には実に神社が多い。ほとんどの神社には狛犬がある。それも下関のそれは江戸時代に造られたものが多い点が特徴といえる。その時代により様式が異なったりと見どころは多い。そのルーツは、エジプトのスフィンクスという説もあるという。今回はそんな中の一部を紹介した。とくとご覧あれ。

(写真)1.亀山八幡宮/顔が横に長い愛嬌のある表情が印象的。太い前足が力強さを表現している。年代不詳
(写真)2.亀山八幡宮/顔の小さな狛犬。右側なので「阿(あ)」となり、口が開いている。左側は「吽(うん)」 となり、口を閉ざすのが基本で、「阿吽の呼吸」もここに由来。物事の始まりと終わり、陰と陽の意味もあるという。文化10年(1813年)
(写真)3.亀山八幡宮/下関では最も大きな部類に入る狛犬。左側には子供がじゃれている姿があり、微笑ましい。文久元年(1861年)
(写真)4. 忌宮神社末社の八坂神社/尾を上に高く上げた型が特徴。下関では珍しく、石川県金沢付近に多い型である。嘉永5年(1852年)
(写真)5.忌宮神社/下関に多い型で標準型ともいえる狛犬。質素な造り。年代不詳
(写真)6.忌宮神社/筋肉質の体型。時代が新しいので他の狛犬とは少々型が異なり、全体的に派手。年代不詳
(写真)7.忌宮神社/耳が大きく折れている。一見すると犬にも見える。台座もシンプルで全体的に荒い仕上げ。嘉永4年(1851年)
(写真)8.斎八幡宮/顔をきりりと上げ、堂々とした姿。台座が3段となった豪華な造りでバランスがよい。天保14年(1843年)
(写真)9.乃木神社/顔をよく見ると、獅子のような型に見える。顔が大きく、手足が短いのが特徴。大正10年(1921年)


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ツツウラウラ発 おたより劇場

 フリーにもかかわらず読みごたえがあります。年間約100日ぐらい旅の空の私にとって地元の情報誌はかならず手にとってしまうのですが、どれもお店や有名観光地ばかりでうんざりぎみ…。その点この083、ディープな情報でとても参考になります。旅先での銭湯も(温泉ならさらにグッド)気持ち良いんですよね。
(39歳 男性 東京都江戸川区)

 特集「はし」づくし。あるページで私の目はそれこそくぎ付けに。なんと私の生まれた所が写っていたのです。豊北町の矢玉。あの川が矢玉川だと初めて知り、あの橋が蜻蛉橋という名前と知り、あの鳥居についてはそこにあるだけで気にもしなかったのに写真になり、じっくり見ているとなんだかとても懐かしい気持になりました。
(55歳 女性 下関市)

 私は年を取って足の運動にウォーキングというか散歩が日課です。あの日、はからずも沈下橋の上で林先生にお会いしました。ニコニコして年寄の話を聞いて下さいました。感激しています。又いつかどこかでお会い出来たらいいナと思います。083がいつまでもつづくことをいのります。
(78歳 女性 下関市)

 林望先生の記事、大変面白く読ませていただきました。地元のおばあちゃんと一緒の写真に写っている潜水橋、今度行ってみようと主人と話しました。下関方面は、何度も訪れていますが、豊北町へは行ったことがなく、今から楽しみにしています。こんな情報が得られた御誌に感謝です。
(45歳 女性 広島県広島市)

 表紙のリリー・フランキーさんのおでんくんにひかれて手にとりました。すごいカワイイ! 地井武男さんは文章もですが絵がすごく良くて、びっくりしました。下関にはちょこちょこ行くんですが、まだまだたくさん行ってみたいところを発見できました。
(28歳 女性 広島県山県郡)

 先日4月17日大河内温泉で同窓会に参加。翌日早朝、友人の車にて角島大橋へ。強風と荒波の中堂々とした大橋、初めて見て感動でした…。帰宅の新下関駅で見つけた083のページをめくり、つい先に会ったあの橋を見て再度感動。新幹線で楽しく読ませていただきました。
(72歳 男性 愛知県名古屋市)

 下関といったらフクやクジラなど海の味しか思いつきませんでしたが、その海にかかる橋を集めると、こんなにワクワクする雑誌になるんですね!0円の冊子は全国に多々ありますが、一つの特集でこんなに魅せる、読ませるものは見たことがありません。はし學講座、たいへん勉強になりました。
(30歳 女性 東京都練馬区)

 はし休め処の「ときわ屋」の二見饅頭、懐かしく拝見しました。父が魚釣りに行った時、必ず買って来てくれ、今でも忘れないとってもおいしい味です。
(56歳 女性 福岡県福岡市)

 JR小倉駅の案内所で手に取り、ページをめくる度に感動! 特集の橋、中身の濃い文章、レイアウトが素敵です。橋や銭湯など、目のつけどころが凄い。第3号も期待してます。
(34歳 男性 北九州市小倉北区)

 飾らない自然体の編集が良い。地方自治体の編集物とは思えない、読み応えのある情報誌です。地方の活性化の推進になればと思います。今夏、萩方面を訪れる予定ですが、その折に角島へ行ってみたいと思います。又、赤字とならない程度の購読料を徴しても良いと思う。その価値は大いにある。
(60歳 男性 大阪府河内長野市)


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物語のある居酒屋(1軒目)

写真と文=大野金繁

今浦町 まんなおし

 人の声がよく通る町筋だ。ちょっと古めの風情がそこかしこに沈殿していて、近所づき合いの風がときおりそれを巻きあげては、筋に温かみをよみがえらせていく。夜に浮かぶちょうちんは、通りの体温で灯るのか、火照ったあかりを親しげにあたりに投げかけている。
 扉を開けると、カウンターの中に男がふたり、初老といっていい年格好ながら張りのある声を飛ばしていた。似ていると思ったらやっぱり兄弟で、もう40年近くふたりで店に立っているそうだ。喧嘩はしないのか、主導権を巡る争いの末、本店と支店に別れる常道は踏まないのか、とつい意地悪な質問が口をつく。
 答えて「弟が兄思いやからね」と兄(写真右)。だったら、仲が良いところを写真に撮りたいと頼むと、「兄貴を撮ってやってよ」と弟。
 弟(写真左)の立ち位置は入り口寄りの網焼きの前。横に地物の魚介が並んだケースがある。一方の兄は、店の奥、厨房に近い鉄板焼きの前が定位置だ。開店前から客がカウンターに着き、小一時間もすれば満席。繁盛を切盛りするふたりの役割分担によどみはない。
 スーツ姿の若者が入って来たときも、ふたりして顔を上げ、「よかったなぁ」の声を重ねた。何が?と不思議がる客に、別の客が説明を始める。
 「ここでアルバイトしよった学生が東京の会社に面接に行って内定をもらったんよ」
 「それを報告に来たほ?」
 「それっちゃ。戻ってきた足で、そのまま報告に来たほっちゃ」
 「ええ話やん。ええ話やねぇ」
 いつしか店は喧騒に近いにぎわいに突入している。若者は旅立ちの力を漲らせた初々しい顔つきで常連客にもあいさつを繰り返す。
 「ええ話やねぇ」客がまた呟いた。兄と弟は笑みを浮かべた顔を再び焼き台に落とした。通りで、ちょうちんが大きく風にゆれた。

※店名揮毫は「兄」の松尾佳朗さん


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次号予告(2009年2月28日頃発行予定)
鉄道

編集後記

 第3号は歌舞伎界のスーパースター、坂東玉三郎さんをお招きし、芸に対する熱い想いを語っていただきました。中国公演などの忙しい合間に快くお引き受けいただきありがたい限りです。今回の取材を通じて、関門海峡の潮流のように脈々と地域に息づく芸のDNAの存在を改めて発見することができました。我々も、これらを後世に引き継ぐべく、せめてmRNAの役割をしっかりと果たしてまいりたいと思います。(K)

 今号から表紙絵を担当していただくアジサカコウジさんと下関の町を歩きました。茶山通りの商店街から住宅街へ、下って漁港近くの町屋の路地に…その先々で「おおっ」とアジサカさんは声をあげます。町が発する情感に呼応していたのでしょうか。ついに放った「こんなディープな場所を描いてもいいんですか?」という質問は、間違いなく感嘆の声でした。その町を背景に、実在から空想を経て縒(よ)りだしたような、人物というより観念世界の生き物のような男が立っている、それが今号の表紙絵です。男が何者であるかに意味はないと知りつつ、考えるのは楽しい。答えは下関の町にひそんでいるのですから。(O)

 テーマがテーマだけに、今回の取材では、下関市の文化活動の第一線でご活躍中の方々とお会いできました。人生の先輩の方ばかりですが、文化や芸術にそそぐ情熱には、ますます怒濤の勢いを感じました。同じ人と別な場所で会うことも多く、「関っ子気分」急上昇中です。ところで、こんなに歴史ロマンあふれる街なのに、大ヒットしたご当地ソングがないような気がします。作詞の才能があればチャレンジするのにとため息つきながら、ペンをマイクに持ち替えて、芸能取材「夜の部」へ突入。(F)

(写真)冬の朝の山陰本線・長門粟野駅

◇アンケート

『083』は今これを手に取られたあなたのための情報誌です。つねに深い眼差しを心がけて、皆さまの役に立つ情報を、ワンテーマ方式で下関市から発信してまいります。第3号についてのご感想、及び今後特集してほしいテーマやとっておきのお知らせなどを、綴じ込みハガキでお寄せください。アンケートに回答いただいた方の中から抽選で29ページで紹介した「たかせの瓦そば」のセットを10名様に、町田忍氏の著書『銭湯遺産』を2名様にプレゼントします。応募締切は平成20年10月31日消印有効。当選の発表は発送をもって代えさせていただきます。



リンボウ寸言『芸の町のDNA』

林 望
 ある意味で、日本最高のテナーは藤原義江だ、と私は思う。あの自由自在洒々落々たる歌い方のなかのイタリア的な楽天性と日本的な芸の味の面白さ。特に私は『鉾をおさめて』が大好きだが、この歌を藤原以上に歌える人は未だ出ない。田中絹代、二村定一、林伊佐緒、みなどこか共通した明るさと「芸の虫」的な気味を感じるけれど、それがどうしてなのか、誰にもわからない。が、下関の海と土と空が果たした役割は、きっと小さなものではないのであろうと、密かに私は思うのである。



083解読

本誌名は、下関市の市外局番に由来しています。しかし、下関市は3個の数字だけで示せるほどモノトーンな街ではありません。「うみ やま たいよう」とは、それを補足するサブタイトルなのです。海あり山あり、そして太陽さんさんの下関には古来、芸の花も豊かに咲いてきました。「うみ やま たいよう」をめぐるドラマの主人公はもちろん、読者の皆さんです。

『083(ゼロハチサン)』第3号  うみ やま たいよう

2008年7月31日発行
編集人=福田章 ディレクター=大野金繁 アート・ディレクター=村上行信
表紙イラスト=アジサカコウジ デザイン=城戸正代 編集委員=林望
発行=下関市 〒750-8521 山口県下関市南部町1番1号 TEL:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
制作統括=(株)電通九州 印刷=凸版印刷(株) 協力=下関市の皆さん
アドバイザー
 下関フィルム・コミッション 常任委員長 冨永洋一
 九州芸術学館山口校 代表 伊東丈年

○バックナンバーを希望される方は、下関市までお問い合わせください。
 TEL:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
○下関市ホームページからも電子ブックで『083』が読めます。
 http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/083/

本誌記事・写真・イラストの無断転載を禁じます。


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