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表紙イメージ
『083(ゼロハチサン)』
うみ やま たいよう
Vol.4
2009年2月28日
下関市発行
表紙イラスト
アジサカコウジ
 ひい、ふう、みい、よ、ふみ切りで、
 みんなして貨車をかずえてた。

 いつ、むう、ななつ、八つ目の、
 貨車にべえこが乗っていた。

 ─金子みすゞ
   「仔牛(べえこ)」より
▼テキスト版目次
 
  2   特集 鉄道の魔力
  4   “鉄”の作家・関川夏央  下関、駅と鉄道の物語
文=関川夏央 撮影=橘野栄二
  14   写真家・野村佐紀子 寝台特急「富士・はやぶさ」で帰郷す
写真と文=大野金繁
  18   誌上写真展「ふるさとの陰翳」
撮影=野村佐紀子
  22   むかし、山陰本線に「カンカン部隊」がいた!
文=野村ゆき 撮影=橘野栄二
  24   列車の旅にそっと寄り添う 旅情を満たす素朴な味
「奥野寿久商店」の大関門・ふくっ子/
「下関駅弁当」のふく天うどん
  26   町田忍の下関レトロ徘徊記「彦島篇」+お気に入り銭湯
  31   『車窓のまぼろし』下関発 超ショートノベル8篇 作=福田章
三角屋根の四角い待ち合わせ/みすゞに似たひと/
難読駅名コンクール 他
  37   ツツウラウラ発おたより劇場
  38   物語のある居酒屋〜二軒目「味覚」
文=野村ゆき 写真=橘野栄二
  40   リンボウ寸言 次号予告 アンケート 『下関駅思い出文集』



特集 鉄道の魔力

かつての鉄道は大量輸送を実現した魔法つかいだった。
時を経て今も、それぞれの乗りこなし方に応じた夢を運ぶ。西のターミナルとして栄華をきわめた下関駅。
山陰線と山陽線、つまり陰と陽とが交わり、大陸とも中継したから、刻々と無数のドラマが生まれてきた。
鉄道のことなら何でもご存じなバリバリ鉄ちゃん、さっきまでパソコンに向かっていたカクレ鉄子さんに告ぐ。
下関ゾーンには、点と線との感動や出会いがひしめいているのです。

(写真)この写真(撮影=橘野栄二)は下関駅長室に飾られている、下関中央工業高等学校2006年度卒業生約20名による爪楊枝約17万本を用いた点描画(タテ1m80cm、ヨコ2m25cm)を撮影したものです。作品のもととなった写真は昭和35年(1960)頃の下関駅前で、151系の昼間特急、山陽電気軌道のモ503もうかがえます。


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“鉄”の作家が乗って、歩いて、体感した栄光の鉄道史
下関、駅と鉄道の物語

文=関川夏央
撮影=橘野栄二

(写真)自ら「終着駅好き」と名乗る関川夏央さん。かつて三角屋根が目の前にあったJR下関駅前
人工地盤の上から海側を見つめて、この都市の歴史の厚みに想像をめぐらせた。

今では知る人ぞ知るくらいになった感もある、下関の栄光の鉄道史。
けれどこの人に語らせれば、それが昨日のことのように蘇る。
かねて日本近代史をテーマとして珠玉の作品を物し、
鉄道旅行に昭和時代への郷愁を重ねてやまない作家、関川夏央さんだ。
あくまで新幹線で現地へ乗りつけ、船をはさんで、ローカル線に乗車。
さらに各地を踏査して、図らずも最後は南氷洋のロック(!)で締めた。
鉄道愛に満ちたレポートは、下関が「“鉄”の都」であることを教えてくれる。

関川夏央(せきかわ・なつお)

1949年、新潟県生まれ。作家。上智大学外国語学部中退。実質的デビュー作『ソウルの練習問題』には関釜フェリー乗船のため、下関港埠頭に立つ場面が描かれている。『海峡を越えたホームラン』(1985講談社ノンフィクション賞)、『「坊っちゃん」の時代』(2002手塚治虫文化賞)、『昭和が明るかった頃』(1998講談社エッセイ賞)、『おじさんはなぜ時代小説が好きか』、『家族の昭和』など著書多数。2001年 には『二葉亭四迷の明治四十一年』などで明治期以来の日本人の思想や経験を掘り下げた業績に対して、司馬遼太郎賞を受賞。2006年刊『汽車旅放浪記』(新潮社)で鉄道好きを吐露して以来、各紙誌に鉄道関係の文章を発表することも増えている。神戸女学院大学客員教授。

まず関門海峡を船で渡ってみた。海路で町に入るとは、得がたい体験である。
 といっても関門海峡は、もっとも短い場所で幅七〇〇メートル、大河の河口のようだ。外国人ならそう思うだろう。瀬戸内海そのものだって、ナイルやアマゾンやミシシッピ、それに長江の河口になじんだ人には、やはり大河に見えるかもしれない。
 しかし、それこそ古代以来日本の最重要の海峡であったのだ。近世に北廻り航路が成立したのちはなおさらである。樺太以南、日本海側の産品はみな北廻り航路で運ばれ、関門海峡を経由して瀬戸内海に入った。下関は荷の中継地であり、最初に商品相場が立つ港町だった。
 女性運転士が操船する渡船から見た下関は、美しい。小高い丘がつづく麓に、水に浮いているかのような街区が見える。やはり海峡育ちの都市なのだ。

(写真)「1950年代への回帰衝動が、私をローカル線の旅に押し出すんだよ」と関川さん。下関から小月までの短い乗車を楽しんだ。
車両はかつて関西圏の「新快速」として活躍していた117系。

誇らかに「振鈴」は響く

 鉄道好きの目から見た下関のレポートを、というのが今回の注文である。私に、いなやはなかった。
 下関は、終着駅として古くから鉄道好きにはなじんだ名前である。憧れといってもいい。おまけに私は鉄道好きのなかでも「終着駅好き」「歴史好き」なのである。
 明治三十四年は一九〇一年、すなわち二十世紀最初の年である。その年、私鉄山陽鉄道が下関に達した。尾道まで建設されて以来十年の歳月を要したが、三井の大番頭にして福沢諭吉の甥、中上川(なかみがわ)彦次郎は鉄道建設にあたってきびしい条件を課して、決して妥協しなかった。すなわち、線路は一〇パーミルまでの勾配(一〇〇〇メートルにつき一〇メートル以内の上下)、カーブの半径は最小四〇〇メートルとした。
 当時でも後年でも、在来線は二五パーミルまで許し、半径三〇〇メートル以下の線も少なくなかった。山がちの日本では、線路は谷づたいに屈曲しながら山を登り、もうこれ以上は無理という地点から、ようやくトンネルを掘りはじめるのが普通であった。条件をきびしくすれば、列車の速度は増してもトンネルの数と長さは増す。工事費はかさむ。
 それでも中上川が最後まで自説を曲げなかったから、山陽鉄道は九州鉄道はむろん、東海道線など官有鉄道と較べても遜色はないどころか、日本でもっとも速く、また乗心地のよい鉄道として知られたのだが、実は中上川の強硬な主張は、瀬戸内海水運に対抗するためだった。鉄道の競争相手は安全な内海航路の船であった。
 夏目漱石は明治二十九年(一八九六)夏、松山尋常中学に教師として赴任した。そのときは新橋から神戸まで汽車に乗り、あとは船を使った。翌年、熊本の第五高等学校へ赴任したが、やはり船で広島を経由して門司へ行き、そこから九州鉄道に乗った。明治三十三年夏、英国留学を命ぜられた漱石は、やはり上京に際して門司までは汽車で行った。鉄道はすでに三田尻まできていたが、船便が不便なので徳山まで乗船した。徳山から山陽鉄道である。
 漱石の小説『三四郎』の主人公、五高を卒業した小川三四郎は、大学入学のために明治四十年晩夏に福岡県行橋から上京した。学校は九月にはじまる。彼は門司から連絡船で下関に渡り、下関から東京行の汽車に乗った。
 前年、すでに山陽本線は官有化されている。下関は山陽本線の終着駅であり、日露戦争が終った前々年には関釜連絡船の出航地となっている。大陸との連絡地の地位を敦賀(福井県)から奪った下関は、以来、交通の要地として繁栄への道をたどった。
 当時、列車の発車は「振鈴」で知らせた。下関駅の名物である。あえて遠くまで聞こえるように大きな音を響かせ、近所から苦情が出るほどだった。平成十八年の不幸な駅火事で、大切に保管されていた「振鈴」の木製の持ち手と箱は焼けたが、現在は復元されている。三四郎もその音を聞いたかと思えば、感慨を抱かざるを得ない。
 日清戦争の講和交渉は、阿弥陀寺町の春帆楼で行われた。小高い丘の上からは海峡が見わたせる。そこをつぎつぎ通過して遼東方面へ向かう輸送船を清国全権に見せるためであるが、かりに日露戦争に日本が敗れていたなら、と考えてみる。その場合ロシアは、対馬と佐世保、それに下関を強引に租借しただろう。その三カ所をおさえれば、ロシアは日本海を自国の内海とすることができるのである。そのうえロシアには、一度獲得した土地は手放したがらない性癖がある。思うだに怖いことだ。

(写真)鉄のアルバム1
細江町にあった頃の旧下関駅。左は旧下関警察署と鉄道旅館浜吉、右に山陽ホテルが見える。これは絵ハガキで、説明文に〈日本の玄関〉とある。撮影=昭和11年(1936)
(写真)今では骨董品ともいうべき振鈴を手にする下関駅長の酒谷芳郎さん。重さは3キロ以上ある。

歴史のトラウマによる経路迂回

 鉄道好きとして不思議に思うのは、山陽線が下関に入ってくるときの経路、線路の敷き方である。長府から山側に入って幡生に出る。そこから日本海に接近、下関市街へ至る。
 昭和十七年(一九四二)に関門トンネルが開通したとき下関駅は現在の場所に移されたが、それまで下関駅(当初は馬関駅)は西細江の海岸にあった。連絡船で九州と連絡するのが下関駅の使命である以上、門司駅(現門司港駅)の対岸でなければならないからだ。
 ということは、戦前「開かずの踏切」で知られた竹崎の踏切から、列車は東へカーブを切り、頭を東京方面に向けて駅に入ったわけだ。
 長府からなら、壇ノ浦を通る経路が合理的なのに、そうはせず、山間部経由としたのは、軍の強い要請があったからだ。敵の艦砲射撃にさらされる危険を恐れたのである。
 だが海峡は避けても、幡生からは日本海に近づく。こちらの方が外海である分、危険ではないのかといいたくもなるが、長州人を中核とした陸軍にはトラウマがあった。元治元年(一八六四)、四国連合艦隊下関砲撃事件の消しがたい記憶である。
 その一年前の文久三年五月、長州藩は「攘夷」を実行した。海峡で疑わしい行為をとったアメリカ商船を砲撃、ついでフランスとオランダの軍艦と砲戦を交えた。すると翌年七月、その報復という理由を掲げて、英、仏、蘭、米、四カ国の軍艦十七隻が関門海峡に来襲した。砲戦の末に陸戦隊が上陸、前田地区一帯の砲台をすべて破壊した。
 それは英国公使オールコックが主導して、賠償金獲得を目的とした行動であった。艦隊遠征費全額の弁済、下関市街を砲撃で焼かなかった点の考慮と慰藉料までを加えて、三〇〇万ドルという高額な賠償金を要求した。
 この賠償金は幕府が支払った。半額まで払い込んだところで幕府は倒れ、明治政府が受継いで事件から十年後に完済した。しかし、この恐喝じみたやりかたには、事件当時から英国世論は批判的だった。艦隊中一隻だけを渋々参加させただけで償金の四分の一を得ることになったアメリカでは、議会が償金を不当利得として返還を決議した。
 返還は明治十六年(一八八三)に実行され、日本政府はその金を横浜港の整備に投じた。「メリケン波止場」の命名は、その名残りである。
 だが、いずれにしろ長州藩は惨敗だった。このときフランス軍に持ち去られた砲の一門は、一二〇年後の昭和五十九年、下関市に返還された。いまそのレプリカは、みもすそ川公園内、松本清張が少年時代の一時期をすごした海岸の借家跡のそばに展示されているが、屈辱と恐怖の思いを抱きながら見る人は、もはやいないだろう。
 しかし明治後半期は違った。さすが骨がらみの合理主義者中上川彦次郎も、軍と長州人の深刻なトラウマには勝てなかったのである。

(写真)鉄のアルバム2
現在地に建っていた懐かしい三角屋根の下関駅は昭和17年(1942)11月15日開業、平成18年(2006)1月7日未明焼失。
屋根越し(西口)に下関大丸がのぞく。撮影=昭和35年(1960)頃。

「山陽ホテル」の栄華、今いずこ

 旧下関駅はよい建築であった。終着駅の風格があった。写真から偲ぶばかりだが、門司港駅より立派だった。
 この駅が現存していれば観光資源になったのに、と思わぬでもないが、それは無理な願いである。関門鉄道トンネルが開通したとき、トンネルの位置にあわせて彦島方面へ線路は延伸され、下関駅は現在の場所へ移った。下関駅は終着駅ではなくなり、旧駅も歴史的役割を果たし終えた。三年後の昭和二十年(一九四五)、空襲で焼かれ、完全に姿を消した。
 二度の空襲に加えて、全国に投下された機雷の半分近くが関門海峡に集中し、関釜航路の船がしばしば魚雷攻撃を受けたのは、下関が重要な攻撃目標だったからである。海峡には約三百隻が沈み、沈船のマストが林立した。そのため戦後もその処理が終るまで海峡通過ができなかった。皮肉なことに、海峡でもっとも魚が釣れたのはこの時期だった。
 いま旧駅付近で往時の面影をとどめるのは、ただ山陽ホテルの建物、というより廃ビルだけである。明治三十五年(一九〇二)、旧駅開業の翌年に建てられたのは木造二階建のホテルだった。大正十一年(一九二二)に失火で焼失、大正十三年に再建されたその建物が現在にきわどく残る。空襲を受けたが全焼はまぬがれた。しかしホテル機能は失って、そのまま廃業した。
 国内にあった国鉄直営のホテルは、東京ステーション・ホテル、奈良ホテル、それにこの山陽ホテルのみで、営業成績より格式を重んじた。食堂の、紫の振袖に白いエプロン姿の給仕は、下関の高等女学校卒業生の憧れの職業だった。
 下関は、シベリア鉄道、満鉄、朝鉄とつなぐ「欧亜連絡」ルートの終着駅でもあったので、皇族からベーブ・ルースまで宿泊客は多彩だった。満鉄総裁・松岡洋右(ようすけ)や朝鮮総督・宇垣一成(かずしげ)は内地の土を踏むとすぐ山陽ホテルで記者会見をした。ネタに困った新聞記者も、「欧亜連絡」列車経由の客が着く日に山陽ホテルにいれば、何かしら記事が拾えた。
 テノールの世界的歌手、藤原義江は帰国の際には必ず山陽ホテルに泊まった。彼は連絡船から降りたとたん、自ら新聞記者を呼び集めてロビーで会見した。
 藤原義江にとって下関は故郷である。彼は貿易会社・瓜生商会の支配人であった英国人の父と日本人の母の間に生まれた。昭和三年(一九二八)、二十九歳のとき中上川あきと再婚した。二児を置いて離婚、単身ヨーロッパへ行って藤原と再婚した中上川あきは、中上川彦次郎の娘であった。藤原夫妻と下関には深い縁がある。
 二十五年の結婚生活ののちに藤原義江と別れたあきは、NHKテレビ「私の秘密」の回答者となって知名度を高め、昭和三十七年、参議院のタレント議員第一号となったが、五年後、在職中に亡くなった。藤原義江はあきより十年長く生き、昭和五十二年、帝国ホテル住まいのまま死んだ。七十七歳だった。

(写真) 山陽ホテルについて、開業直後の『鉄道時報』によると、一夜の宿泊料は一室一名一晩、二食事及び一回のチー(お茶のこと)と入浴を併せて三円八十銭也。現在は閉鎖中で入館はできない。
(写真)鉄のアルバム3
現在の長府外浦町付近を走る路面電車。山陽電軌長関線は昭和44年(1969)に廃止となった。旧下関水族館は同31年に開館。丘の上に併設された「鯨館」は今も建物が残る。撮影=昭和30年代頃

国際都市のキャラクターを堅持

 下関駅の全盛期は、実は日中戦争中であった。「興亜景気」で、年間三百万人が下関と大陸を往還した。それに本州と九州を行き交う人々を加え、年末年始などの駅構内の人混みはすさまじいものだった。
 戦後になってもそれはかわらなかった。今度は、引揚げと在日コリアンの帰国が錯綜して、駅と駅前は筆舌につくしがたいほどの混雑・混乱であった。
 そんな大移動が終ったのちも、下関は繁栄への道をたどりつづけた。戦後の食料難の解決の一助として、下関は全国一の捕鯨基地となった。昭和三十三年(一九五八)には関門国道トンネルが開通し、はじめて海底に県境標識が置かれた。下関市民は祝い、日本人全体が喜んだ。戦前の到達水準をついに超えたという共有の認識ゆえである。
 こうして下関は道路交通でも終着駅ではなくなった。昭和四十八年には関門橋が開通し、中国自動車道も延伸した。昭和五十年には山陽新幹線全通で、新下関駅ができた。下関の人々はこれらの達成をやはり喜ばしく迎えたのだが、便利になればなるほど、また他地域の人々の役に立つ施設を提供すればするほど、下関と下関駅の影が薄くなるとは皮肉であった。下関駅はやはり、終着駅としての輝きを本領とするようである。
 いま在来線で下関駅に入線する特急列車は、熊本発着「はやぶさ」と大分発着「富士」の共同編成一往復のみ、それらが朝と夕に五、六分、停車する。そのうち朝だけホーム上のうどん屋が店開きして、乗客はあわただしく「ふく天」うどんを食べることができる。だが九州行寝台特急の仕事も間もなく終る。「富士」は由緒ある名前である。昭和四年、東京・下関間を走る特急列車に、日本ではじめてつけられた愛称だった。一八時間三〇分かけて下関に着いた「富士」の乗客は、一時間後に出る関釜連絡船で釜山(ふさん)へ。そこから京城(けいじょう)(現ソウル)を経て奉天(ほうてん)(現瀋陽(シェンヤン))。ハルビンには東京を出て四日目、ソ満国境の満洲里(まんしゅうり)には六日目、莫斯科(モスコー)には十二日目、巴里(パリ)には十五日目に着いた。その、乗ったこともないのになぜか鮮やかな国際列車の「記憶」が、いまだ鉄道好き・汽車好きに下関と下関駅を憧れさせてやまないのである。
 だが、下関が落日の町だといっているのではない。関釜フェリーは健在、青島と蘇州便まで出て国際都市でありつづけているし、海峡そのものの重要性はいささかも揺るがない。
 だが、「終着駅好き」「歴史好き」に加えて「路面電車好き」でもある私は、下関駅前や壇ノ浦を走る山陽電気軌道の電車を、やはり見たこともないのに懐かしむのである。それは昭和という時代を体現した風景であっただろう。
 おなじ思いは、市郊外の小月で、長門鉄道の廃線跡をたどってみたときにも味わった。大正七年(一九一八)、日本が欧州大戦バブル景気でわきたつなか、全国に起こった私鉄ブームで建設されたひとつで、小月から北方へ一八キロ、下関市豊田町西市まで通じた。
 廃止されたのは昭和三十一年(一九五六)だから、すでに半世紀余りを経て、旧軌道の道床は農道とかわりがないように見える。だが線路をできるだけ水平に近づけるための切り通しがところどころにあるから、それとわかる。その切り通しの上にかかった道路橋の、建設当初からのレンガ積みの橋桁にふれて、昔を偲ぶばかりだ。
 いささか感傷的な気分にとらわれて夕刻下関市街に戻り、駅から遠からぬ場所にあるバーに入った。
 店内に、船の写真がたくさん飾ってある。軍艦ではない。商船やタンカー、それに南極観測船もあったと思う。マスターがつくってくれたオン・ザ・ロックスの氷は、その観測船が届けてくれた二万年前の氷だという。注がれたウイスキーから、二万年前の南極の空気がぴちぴちと弾けてくる。二十万年前のもあるとマスターはいったが、とてもおそれ多くて拝見するだけにした。
 私は、昭和三十年代まで親しいものであったマルハの鯨缶のラベルにえがかれた南氷洋を思い出した。オン・ザ・ロックスは、いわば日本近代史の結晶のような味がした。それが下関の味である。

(写真) 80年代前半ここ国際ターミナルから韓国・釜山へ旅立った関川さん。新船の前に立ち、感慨深げだった。
(写真)鉄のアルバム4
山陽新幹線博多延伸のため新関門トンネルが貫通したのは昭和48 年(1973)5月1日。当時の山口県・橋本正之知事(中央)と福岡県・ 亀井光知事が、海底で喜びの握手を交わしている。
(写真)下関市菊川町の大野神社付近から長門鉄道の廃線跡をたどって歩いた。 乗ったこともない列車の「記憶」が作家の胸をよぎる。

7〜12ページに「鉄のアルバム」として掲載した写真4点は、『しものせきなつかしの写真集 下関市史』(1995年発行)所収のものです。


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写真家 野村佐紀子
寝台特急「富士・はやぶさ」に乗り下関へ帰郷す

初めて乗っても懐かしい寝台列車の旅──。じょじょに遠ざかり、
ようやくにして近づく、距離と時間が綾なす心の旅が展開する。
アラーキーこと荒木経惟氏を師匠にもつ写真家・野村佐紀子さんが、
東京を発ち下関へと到る、14時間半をかけた帰郷のドラマ。
その車中一夜の情景をお届けしよう。

写真・文=大野金繁

景色が移り変わるホテルのような

 ハンチングにハーフコート姿の野村佐紀子さんが、銀色に光るスーツケースを転がしてJR 東京駅に現れたのは、寝台特急「はやぶさ」の発車時刻(18 時3 分)まで1 時間を余す薄暮のころ。
 さっそく百貨店の総菜売場へ直行すると、弁当、酒肴、デザート、朝食、ワイン、焼酎、さらにはウイスキーまで抱え込む。師匠ゆずりの「イケるクチ」だ。
 乗り込んだ「はやぶさ」にはA 個室とB 個室、2段ベッドが向き合うB 寝台の3 タイプの客室があり、シート兼ベッドの上に糊のきいたシーツ、毛布、枕、浴衣、衣紋掛けがセットされ、ちょっとしたホテルの部屋に入室した気分。「切符を拝見」に現れる乗務員の物腰にも、ベテランのホテルマンを思わせる温かさがあり、旅の一夜を見守ってくれそうな安心感がある。
 しかしホテルと違って列車の窓は景色が移る。A寝台個室に入った野村さんは部屋着に着替えるとワインとカーテンをあけ、流れゆく車窓の夜に、そして初めての寝台特急の旅に、祝杯をあげた。
 こうしたプライベートな悦楽こそ寝台特急の魅力。ところがあえてB 寝台を選ぶ乗客もいる。ビデオをまわしていた中年男性がその心情をこう話す。「窓が広くて、通路側の景色も見える。開放感を求めるならだんぜんB 寝台ですよ」
 どうやら鉄道ファン、つまり「鉄ちゃん」らしい。「鉄ちゃんには乗るタイプと撮るタイプがいて、ぼくはそのどちらでもない。あと録音する人もいるかな。車内放送や放送前に流れる音楽、振動音やそこに重なる汽笛。とにかく音がたまらない人たちです」
 本人は否定するが、言動は間違いなく鉄ちゃんのそれだ。列車はいろんな楽しみを乗せ、走っていく。

(写真)日付が変わるころ、列車は滋賀県稲枝駅付近を走行中

揺れつつ「闇」を撮る鉄子さん

 深夜、ライカを手に個室を出た。乏しい光源をモノともせず被写体に肉薄、フィルムに極限を超える冒険的増感現像を施し、ブレや粒子の荒れの中に情感を定着させるのが野村さんの写真。車体の振動や眠りを妨げない薄い灯りは、まさにその世界にふさわしい。
 生粋の鉄ちゃんなのか、あるいは「センチメンタルな旅」なのか、膝を抱えた姿をただ窓に映す人がいる。滑り込んだホームには写真を撮る人が待ちうけ、発車すると三脚を抱えて小走りに追ってくる。
 乗客の中には後方「富士」の車両から巡礼者よろしく機関車を目指すものがいて、「EF66」のプレートに静かに見入っては写真におさめる。
 もちろんほとんどの客室がカーテンを閉じていることから、眠りにおちた人や読書にふける乗客もいることがうかがえるが、深夜の寝台特急に人影が絶えないことも事実。野村さんも探索を続ける一人だ。
 備え付けの灰皿には国鉄のマークが、窓辺の小さなテーブルには栓抜きが、よく見ると付いていて、これは民営化以前からの客車である証し。2 つに折れて開く乗降ドアも今ではめったに見られない仕様。こうしたディテールの発見はうれしいもの。「一夜にして鉄子になったみたい」と野村さんは笑った。

(写真)京都駅ホーム、深夜の鉄ちゃん<Jメラマン

下関駅での「日課」にざわつく車内

 目覚めは、遠慮がちな「おはようございます」の車内放送。瀬戸内の海が霞の中で夜明けを迎えている。東京を発って以降初めての車内販売が始まり、待ちきれない人がカートを迎えに出る。人気は穴子らしい。「穴子、終わりましたぁ。あとは幕の内ですぅ」の声に心底肩を落とす人がいて、可笑しかった。
 元特急コンテナ専用の「EF66」機関車(かつては下関発東京行き鮮魚特急「とびうお号」を牽引していた)は、ここ下関で関門トンネル用の「EF81」と交代。次の門司駅で熊本行き「はやぶさ」と大分行き「富士」の6 両ずつに分かれる。関門トンネルの両端で日ごと行われるこの機関車の付け替え作業は、鉄道ファンにとって見逃せないイベント。期待感の現われか、車内の空気がざわついてくる。
 野村さんもまた、感慨に包まれていた。「いつか、ちゃんと撮らなくちゃと思っていました」
 そのふるさとの景色に、窓を傾け列車は入っていく。下関着は8 時32 分。その前に、かろやかなシャッター音が響きはじめていた。

(写真)
16:54 東京駅デパ地下の総菜売場で食料を買い、ホームへ。車両は「富士」と「はやぶさ」の12両編成寝台車。
18:03 「はやぶさ」2号車A寝台乗車。さっそく車内散策。
21:08 窓辺の補助椅子は絶好のビューポイント。
22:45 ホテルの一室のような個室寝台でくつろぐ。
23:21 乗務員から車内の案内をうけ、本格的に車内探索へ。
23:50 灰皿(禁煙車両は使用不可)に国鉄のマークを発見。
00:37 寝静まったかに見える車内をなおも探索。京都駅5番線のホームには三脚を抱えた「鉄ちゃん」が。シャッター音が響き合う。
00:52 深夜に至ってますます元気な野村さん。
01:03 淀川に架かる鉄橋を渡る。まもなく大阪駅。
06:19 目覚めると瀬戸内海(柳井港付近)。B寝台の開放的な窓で近づいてくるふるさとを思う。
07:28 思い出すことでもあるのか、しだいに無口になっていく野村さん。
08:27 下関に向け、シャッターを切り始める。

◆「富士・はやぶさ」の記号

 列車に付いているアルファベット、数字、カタカナなどの記号には、それぞれ意味がある。「富士・はやぶさ」の記号を読み解いてみよう。まず機関車の「 EF66」。E はエレクトリックロコモーティブの略で、電気機関車であることを表す。F は、車で言えば四駆や二駆のように動力の数を表す記号で、アルファベットの6 番目F は動力が伝わる車輪(動輪)が6 つあることを意味する。数字は70 番台から上が交流、60 番台以下は直流の機関車を表し、本州は概ね直流で九州は交流。したがって「富士・はやぶさ」は下関まで直流の「EF66」で走行、関門トンネルを交直両用の「EF81」で渡り、門司から交流で動輪数4 つの「ED76」に連結され、富士は大分、はやぶさは熊本へと向かう。  次いで客車につくカタカナの記号について。冒頭のスとオは車両の重量を表し、重い順に「カ、ス、オ、ナ」の記号がある。続くロとハは客車の等級を表し、ロはグリーン車、ハは自由席や指定席などの普通車両の意味。次のネは、ネル、つまり寝台。フは、付随のフで、車掌車であることを意味する。ということで、オロネとあれば「電源設備を搭載しない軽い車両でグリーン車仕様の寝台車」となる。最後に付く14 や15 は車両の型。興味のある方は違いを調べてみては。

野村佐紀子(のむら・さきこ)

1967年、山口県下関市生まれ。九州産業大学芸術学部写真学科卒業後、1年間のスタジオ勤務を経て、91年より写真家荒木経惟に師事。主義として弟子をとらない荒木の唯一の弟子となる。青年やカップルの裸体を中心に独特な写真世界を追究。国内各地、ヨーロッパやアジアでも精力的に活動。毎年夏には福岡市で個展を開催。『裸ノ時間』(平凡社)、『愛ノ時間』(BPM)、『黒猫』(t.i.g)、『tsukuyomi』(MATCH& Co.)などの作品集がある。近刊に『黒闇』(Akiko NagasawaPublishing)、初のカラー写真集『夜間飛行』(リトルモア)。

寝台特急「富士」「はやぶさ」は2009年3月14日のダイヤ改正に伴い、廃止されます。
この記事は2008年10月6 〜7日の取材によるものです。
※野村佐紀子さんの撮りおろし「ふるさとの陰翳」を18〜21ページに掲載しています。


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ふるさとの陰翳 誌上写真展 野村佐紀子

海にとどく駅

ラッシュアワー

流れゆく現在(いま)

いつか回帰する日


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むかし、山陰本線に「カンカン部隊」がいた!
たくましき昭和の母、山本英子さんに会う

取材・文=野村ゆき
撮影=橘野栄二

下関の北部、日本海側に面した北浦地方は、
いくつもの港町が点在する海の幸の宝庫である。
かつて、戦後から昭和50 年代にかけて、
北浦で水揚げされた新鮮な魚を山陰本線で下関まで運び、
行商を営んでいた「カンカン部隊」なる、女性たちがいた。
長門二見駅で出会った山本英子(ふさこ)さん(84 歳)も、その一人。
73 歳まで現役だったという行商人生について、
昭和の懐かしさが微かに残る、駅のホームでお話をうかがった。

──この長門二見駅から、いつも山陰本線で下関へ行商に?
山本 私らは、ここを朝5時半頃に通る汽車に乗って、下関の唐戸まで運びよったんです。大きな缶々に魚をようけ入れてたから、カンカン部隊ちゅうて言うんよ。二見だけじゃなぁで、仙崎から吉見にかけて、北浦だけで100人以上はおって、汽車の1・2両目は貸切やった。
──ほんとに大部隊だったんですね。どんな魚がよく売れましたか?
山本 二見港で水揚げされたイワシやら、アゴ※1やら、ミズイカやら、いろいろ。私らは、一般客への小売りじゃなぁで、商売人相手の卸しをしちょったけえ、唐戸に着くと、こっちから声かけんでも「今日は何ある?」ちゅうて、お得意さんが集まってくれちょった。特に、祭りが多い春と秋は飛ぶように売れて、下関駅に着くまでの汽車の中で「分けてくれんか?」ちゅうて近づいてくる人もおったねえ。
──いちばんにぎわっていたのは?
山本 戦後から、昭和50年頃までかねえ。ほんでも、数十キロの魚と缶におさまりきらんイカを10箱くらい売り切って、家族5人がようやく食べていけるくらいしか儲からん。チンチン電車の廃線※2で人を雇わんと下関駅から市場まで荷物を運べんようになって、自家用車が増えてからは前ほど売れんようになった。ほいで73歳んとき、そろそろ潮どきやと、商売をやめたんよ。仲間には、店を構えて今も唐戸で商売しちょる人もおります。
──73歳まで現役だなんて凄い。行商を始めたのはいくつの時ですか?
山本 30歳んとき。戦争で主人を兵隊にとられて、3人の子供を育てるために始めたんよ。戦後も夫婦で必死に働かんと食べていけん時代。毎日、夜中の1時に起きて港で魚を仕入れ、すぐに捌いて、傷まんよう氷を張った缶に入れる。ようやく家を出るほが朝4時頃で、唐戸から戻るんは昼頃。ほいから、大敷網※3の漁師をしちょった主人を手伝ってイワシを干したり、夕方まで働き通し。子供らが学校へ行くほを見送っちゃることもできんかったし、お弁当も夕飯もずっと長女がこしらえてくれよった。寝る前に子供らの宿題を見ちゃるときが、唯一、母親らしいひとときやったねえ。
──最後の行商、覚えていますか?
山本 平成9年8月13日。この頃には汽車やのうて車を使いよったんじゃけど、市場まで商売仲間やお得意さんが、お別れを言いに来てくれて、綺麗な薔薇の花束までくれたんよ。やから、忘れんわ。

インタビュー後記

 今回のインタビューで、長門二見駅を10年ぶりに訪れた山本さん。往事の面影が残る駅のホームに立ち、「汽車を待ちながら、よぅ仲間らと流行歌を口ずさんだんよ」と最後に懐かしそうに笑った。山陰本線とともに生き、自家用車の普及に伴って姿を消したカンカン部隊。欲しいものが苦労せずとも手に入る便利な今だからこそ、かつて戦後の貧困と動乱の中で、明日を夢見て必死に生き抜いてきた昭和の母たちが居た事実を、忘れてはならないのだと思った。ほんのひとときでも、山本さんの濃厚な思い出の時間に、自分の時間を重ね合わせられたことを、私は力にしていきたい。

(写真)北浦の海の幸を担いで下関駅に降り立つ「カンカン部隊」 撮影=グループS・Y・S 『西海の渦潮』より

※1=トビウオのこと。
※2=大正14年から昭和46年まで、路面電車が下関市内を走っていた。
※3=豊浦の湯玉浦が発祥とされる定置網漁。


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列車の旅にそっと寄り添う 旅情を満たす素朴な味

撮影=橘野栄二

「奥野寿久商店」の大関門・ふくっ子(大関門1本350円、ふくっ子1袋10本入り600円)

おやつにかまぼこ、おみやげにちくわ

 海の景観と味覚に恵まれた下関なればこそ、旅のお供やおみやげにちょうどいい、トラベルサイズの逸品にも出会えるというもの。『大関門』は、「焼きぬき」と呼ばれる北浦地方ならではの製法が特長のかまぼこ。板の裏が少し焦げていて、逆にこんもりと盛りあがったすり身は驚くほど白いのが、焼きぬきの証しだ。口に入れると、柔らかすぎない、ぷりっぷりの弾力。まるごと1本がペロリとなくなってしまうほど、食感がいい。
 この焼きぬきの技術をちくわに応用し、ふぐ雑炊をヒントに誕生したのが『ふくっ子』。ふぐの骨から取ったダシを加えてすり身を焼きあげることで、ヒレ酒のような香ばしい風味がプラスされた。小ぶりで食べやすい。窓の向こうは山陰海岸。スローな列車にゆられつつ味わえば、下関ならではの旅情が深まっていくだろう。

Data
◇奥野寿久商店

下関市吉見本町1-5-8(JR吉見駅前) TEL:083-286-5522
7時30分〜18時 無休
「下関駅弁当」のふく天うどん(1杯470円、持ち帰り容器代は別途20円)

待ちに待った名物!フクをいただきます。

 下関駅のホームに漂う天然だしの香りに誘われ、買い求める人が絶えない名物うどん。揚げたてのシロサバフグの天ぷらが、うどんを覆い隠すようにデン!
 と鎮座。かまぼこの形まで「ふく」と、芸が細かい。
 創業当初は駅弁当のみの販売だったが、寝台特急の発着本数がピークを迎えた昭和40年頃に「列車を連結する5分間で食べられるものを」と、うどんが登場。早朝に寝台特急の乗客が寝間着の浴衣姿のまま、アツアツのうどんを頬ばる姿は、冬の風物詩にもなっている。喉ごしと消化のよさを熟慮して、生の細めんを使用。列車への持ち込みができるよう容器も改良した。鉄道の利用客のために考え抜かれた、うどんなのだ。列車待ちの時間に食べるもよし、車窓の景色と一緒に味わうのもいい。旅心と小腹を満たす一品。

Data
◇下関駅弁当

JR下関駅のホームと改札前に店舗あり
※新下関駅、長府駅、小月駅にもあり
TEL:083-222-0626(本社)
10時〜19時(3月13日までは9時15分〜19時30分)
無休

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庶民文化史研究の達人 町田忍の下関レトロ徘徊記
「彦島は宝島」

文・写真=町田 忍
※町田忍氏の撮影=大野金繁

庶民文化の巨匠、町田忍さんの下関を巡る旅も四回目。
江戸っ子のリズムで巨匠いわく「下関は毎回新しい発見のある、
実に楽しい場所だよ。ポイント高いよ!」。
今回、歩き回った彦島でも、巨匠の五感がフル稼働して大漁。
島は島でも「宝島」という、うれしい結論が待っていた。
好評の、下関お気に入り銭湯入浴記付き。

町田 忍(まちだ・しのぶ)

昭和25年(1950)、東京生まれ。全国各地、見落とされがちな風俗意匠を研究する庶民文化史研究家。「庶民文化研究所」を設立している。著書は『昭和なつかし図鑑』(講談社文庫)、『懐かしの昭和30年代』(扶桑社)、『納豆大全』(角川文庫)、『銭湯遺産』(戎光祥出版)など約50冊。現在、ニッポン放送『高嶋ひでたけの特ダネラジオ・夕焼けホットライン』の昭和コーナーに毎週火曜出演中。
Y路地に人生を重ねる

 彦島の印象は色々あるが、下関市街地から盲腸のごとくのびた島にも、私には見える。江の浦地区は、彦島でも比較的に古い町並みが残っている。外装にモザイクタイルを使用したたばこ屋さんを撮影して、その反対側の路地に入り込んでみた。
 私は路地が大好きで、どこへ行っても路地があると、すっと入ってしまう。今回は、広い通りからY路地を発見した。Y路地は何か不思議な人を引きつける魔力のようなものがあると、私は常に思っている。それはまさに人生の岐路に立った時に迷って進むかのごとく、私の前に立ちふさがるのである。
 そのY路地には手前が30センチほどの幅しかない民家が残っていた。その路地の左側では、昭和初期に建てられた木造の家の表面を洋風スタイルにした、「看板建築」と呼ばれる建物が印象的だった。正面2階の上のファサードの一部は左官職人の腕の見せどころである。装飾模様が、この建物がただものではないことを物語っている。
 この建物の先の路地を進んでみた。案の定なかなか趣のある古い民家などが残る路地となっていた。
 この路地の突きあたりには、周囲とは関係のないような巨大なクレーンが見えるのが、実に不思議な風景となっている。民家の壁には昭和30年代の古いコーラの看板も発見。少し歩くと右手に何やら木造の、お好み焼き屋さんがある。ちょうど昼時なので入ってみることにした。
 店内にはすでに、作業服を着たお客さんが数人いた。どうやらすぐ先にある造船所で働いている人たちだった。当然観光客などが来る場所でも店でもない。しかし、地元の銭湯と同様に、良い情報が入手できることも少なくないことを、私は体験として知っていた。今回もこの店の女将さんより、翌日午前に、前の造船所で船の進水式があるという、ラッキーな情報を得ることができた。このように偶然な出会いがあるので、旅は楽しいのだ。次もそんな偶然の出来事である。

(写真)一般人が素通りする街角や路地で多大な発見をし、分析し、全国各地と比較しながら、その場でいろいろと解説してくれるのが町田流。たとえば下の写真でも「これきっと、元は旅館だよ」と、ずばり言い当てる。
(写真)江の浦町の「はせ川」でお好み焼きにぱくつく町田さん。マヨネーズたっぷりかけて。

銭湯が古布屋さんになっていた

 彦島の神髄にふれようと「彦島八幡宮」へと車で移動していた途中、なんと「再生銭湯」を見つけた。「本村商店街」というあたりで平成14年まで営業していた「新栄湯」だ。現在は古布の店として、第二の人生をおくっている。店主の津森美代さんは、最後まで番台に座っていたという。
 新栄湯は明治創業で、現在の建物は大正時代の部分が多い。脱衣場の番台やロッカーも古い姿のまま残っているのがうれしい。創業当初は周りに家もなく、前に郵便局があったのみだった。昭和30.40年代は一日にお客が600人ほども来て、それはたいそう忙しかったという。
 注目すべきことに、閉店した現在でも釜を利用して、自家用としてお湯を重油で沸かしているという。かつての脱衣場では現在、古布などを利用した小物入れや古い着物などを販売している。ギャラリーとして再生され、みごとによみがえっている。
 迫町の海岸近くに鎮座する「彦島八幡宮」は、彦島一円の総氏神の神社だ。いつものように、神社を色々と観察してみたところ、御水舎の水の出てくる部分が立派な龍となっていた。全国でこの種の部分を記録している私だが、ここの龍は京都の東本願寺の次に立派なものであった。
 突先へ突先へと引かれて、彦島の先にさらにおまけのようにある小さな竹ノ子島へ渡ってみた。ここは畑と造船所のある島で、港で必ず見かける猫たちの多い島だった。猫たちにとっては宝物の魚に事欠かないのだろう。
 そして翌朝、お好み焼き屋さんで情報を入手していた進水式を見学した。だれでも自由に見学できるというので、一番近くで見学することにしたものの、自動車を積むための巨大な船はまるでビルのごとく目の前に出現した。カメラにはどうしても入りきれなく苦労した。ファンファーレに合わせて、くす玉が割れスルリと海に入ってゆく姿は迫力があり、感動した。
 一見するともはや島には見えない彦島だが、じっくり歩けば、それでもまだ時間の止まった独特の雰囲気が感じられ、私の好奇心をくすぐり続けて、色々な興味深い対象がぞくぞくと発見できる点において、まさに宝島のような島に思えてきた。

(写真)本村商店街の「新栄湯」の枯れた?浴槽(右)と古布屋さんとして再生した脱衣場。数々の廃品利用も見事で、店主・津森美代さんのお話もユニークだ。
(写真)町田さんは神社をも独特のコレクターズ・アイ(?)で観ている。彦島八幡宮の御水舎では水を吐くドラゴンに感嘆した。
(写真)ある日の三菱重工業下関造船所。大型貨物船の進水式に遭遇し、町田さんは仰向けに寝ころがり、夢中でシャッターを切った。その時、頭上では園児たちが祝いの歌を歌っていた。

お気に入り銭湯
城下町長府に唯一残る 朝日湯

 下関における銭湯の集中している場所は、下関駅から唐戸周辺にかけて。この地区に9軒もあるが、今回紹介する長府においては「朝日湯」のみが、現在は営業している。
 朝日湯は城下町長府の「乃木さん通り」を一歩入った角地に建つ。外観は平入りで、一部木造りのレトロ風の趣のある銭湯だ。私から見てもこれだけでもポイントが高い。
 中に入ってみると、使い込まれた番台が目につく反面、下駄箱などは最新式のアクリル製のものが使用されている。
 ご主人の山田美津雄さん(昭和12年生まれ)が、とてもその年には見えず若々しいのは、毎日オゾン浴泉に入っているからだろうか。山田さんによると、先代の谷五郎さんが昭和20年頃に営業を始めたという。当初は平屋だったものを後に2階建てとしたものの、入口は銭湯のお客と同一だったために、脇に出入口を造ったそうだ。脱衣所の鉄の柱は2階にした時に補強のために使用したものである。燃料は現在は重油だが、かつてはオガ屑から石炭、廃材と、その時代とともに変化しているとのこと。
 一方浴室も何回かは改装されているものの、天井は当時の木造とトタンのカバーを張ったままだという。浴室の角にある「滝湯」と大きな文字の入った「うたせ湯」は頭の上から湯水が出ているので、なかなかの人気だという。
 女性側脱衣所にある今はほとんど使用されることのない木製のベビーベッドは、ご主人自慢のクギを一本も使用していない造りだという。このベッド、私にはまさに、この銭湯の歴史を全て知りつくしている証人のように見えたのであった。

(写真)おそらく町田さんが赤ん坊の頃以前につくられたベビーベッドを考察してから、のびのびと入浴。滝湯(うたせ湯)は1人仕様である。
(写真)歴史の街長府によく似合う落ち着いた外観の銭湯。散策の前後に立ち寄ってみたい。


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ひと駅で8篇読める 車窓のまぼろし
下関発 超ショートノベル

作=福田 章
イラスト=永田純子

 旅行かばんに文庫本の1冊もしのばせて、車窓風景と交互に楽しむと、旅の奥行きがさらに深まるということがあります。
 鉄道を舞台にした名作も数知れず。ましてやかつて鉄道交通の最重要拠点のひとつだった下関駅をめぐるエピソード、海と山との風景が七変化する一帯の沿線風景は、旅情と郷愁と想像力をもトリプルにかき立ててくれます。そこにミステリアスな気分が漂ってくれば、もうあなたは鉄道文学作品の登場人物か、もしやそれをあなたが今書いている作家なのではないでしょうか?
 これは下関での鉄道旅行に着想を得た、『083』オリジナルの超ショートノベルです。ひと駅分の時間でひと息にどうぞ。

三角屋根の四角い待ち合わせ

 三角屋根で有名な下関駅、ある昼下がりのコンコース。互いに見知らぬ風情の十数人の老若男女が、何ごとか語らっている。妙なことに、全員で取り囲んだ中のスペースが長方形になっている。「デートの待ち合わせはいつもここでしたよ」「駅の水族館≠ニ呼んでました」「いや私はまめすい≠ニ」「看板にはであいの海≠ニ書かれていたはず」「すっぽかされて、豊前田へやけ酒飲みに行ったりね」「アジのある待ち時間だった」「ここで結ばれためでタイ、カップルもいたようです」「自分らもです。さっそく子供というフクを授かりました」「それが僕です。久しブリに来てみたら水槽が消えていた」「もう一度見たいもんですなぁ、珍しい駅の水族館を!」

上は船、下は列車

 とくに九州の人は感じているに違いない。関門トンネルはどこから始まるのだろうと。それが彦島江の浦町あたりであることに気づいたのは、ひょんなきっかけからだった。たまたま江の浦を歩いていた時、三菱重工業下関造船所で大型船の進水式が行われていた。やじ馬根性で出かけ、写真を撮ろうとすると、船が大きすぎてファインダーに納まりきらない。仕方なく地面に仰向けになったその瞬間、地中深くから震動が伝わってきた。関門鉄道トンネル! それからの私は関門トンネルを通過する際、この上で華々しい進水式が行われていると思うことにした。

たどり着けない駅

 駅はすぐそこにある。ホームが見えている。どうやら裏側に回ってしまったらしい。よほど大きな駅でなければ、出入り口がひとつしかないのは心得ている。まあぐるっと反対側に回れば、正面にたどり着けるだろう。ガードをくぐり、こっちだと見通しをつけた道路に入っていく。なぜか目的の駅から離れてしまう。何度チャレンジしても、その繰り返しだ。まさか車で乗りつけて、列車に乗るわけでもなく、駅の雰囲気だけ観察しようという不心得を、鉄道の神様が赦さないのか?  ついに正面を諦めて、再び裏側へ。裏側で跨線橋への階段をのぼってみれば操車場やら工場やら、鉄道情緒が濃縮した幡生駅が、さっきからずーっと、そこにある。

馬力あふれる寝台

「富士」で東京に向かった。学生時代以来の寝台列車だ。こんなに揺れてたっけ? 五十歳に達して体力が落ちたので、揺れが強く感じられるのかもしれない。じっと手のひらを見つめながら、飲むだけ飲むうち、眠りに落ちた。いつの間にか、乗り物が馬に変わっている。ガタンガタンがパカッパカッに。こいつは勢いがいい。列車より早く東京に着いたりして。おっと道草。真夜中の富士山を駆けあがり始めたかと思うと、あっという間に頂上を征服した。よく見るとこの馬、顔が人間だった。っていうか、体も人間だった。セクシャルな後味の夢。

みすゞに似たひと

 下関駅を10時36分に発車した「みすゞ潮彩」は仙崎駅へ着くまでに、駅と駅との間で3カ所のビュースポットに停車する。最初は小串〜湯玉間。ひねもすのたりのたり、という春の海に、乗客たちは歓声をあげていた。はるか遠くには蓋井島(ふたおいじま)が望める。2番目の宇賀本郷〜長門二見間で停車中、いつの間にか、和服をほんわり着こなした丸顔の女性が赤ちゃんを背負って乗車してきた。「ふうちゃん、もう大丈夫よ」と言いながら。うららかな陽射しの中、金子みすゞの詩集を読んでいた客の証言である。「あれが夫婦岩なんですねぇ。けれど私たちのしめ縄は切れてしまいました。これから仙崎へ帰ります」。丸顔の女性は、悲しい顔でそう呟いたという。

難読駅台コンクール

「全国難読駅名解読マニアの会」という長ったらしい名前の会の設立総会&コンクールが、山陰本線の特牛駅※であると聞いて、のぞきに行った。山陽本線「厚狭」「埴生」などを読むのは朝飯前という読み鉄(?)たちでも、ひっかけ問題に属する山陰本線「梅ケ峠」「宇賀本郷」を読めない人がいて、悔し泣きしながら、特牛駅を去った。ところで、小高い丘の上にある特牛駅の駅舎横には、「伊上畑」という、もうひとつの駅名表示板がある。これには、全国から結集した会員たちも驚いた。それは下関出身の佐々部清監督による映画『四日間の奇蹟』(2005年6月公開)のロケ地に使われた名残りなのだ。映画の主舞台は角島だった。残った全員、それから列車で角島へ向かうことに。

ボートピープル

 男は不機嫌だった。駅向かいの競艇場から、車を跳ね飛ばすような勢いで、こちらに近づいてくる。ははあ、完全にすったのだろう。待合室の片隅で静観していると、うどんコーナーで、コップ酒をあおった。すぐさま、ポケットをひっくり返して金を払った。これでもう、一文無しらしい。そして改札へ。コワモテ男を、駅員はにこにこと通した。長府駅は無法地帯か!  それとも平成維新か! 駅員さんに聞いたところ、下関競艇へ行くために長府駅でおりた人は、そのままスタンプを押した切符を持って競艇場の受付に示すと、帰路に同額の切符(片道950円以内に限る)がもらえるとのことだった。私もやってみたいが、下関に帰る家がない……。

ロマンもほどほどに

 廃線跡にはロマンがあると信じていた。ある所はサイクリングロードになっていたり、狭い切り通しは陰影の宝庫だ。そこに付近の少年を立たせたら、時代が元にもどりそうな、ボーッとSL が近づいてきそうな。菊川町大野神社付近から長門鉄道の廃線跡をたどり、新湯の原ダム付近まで来た。調子に乗ってどこまでも歩いていくと、薮から棒に視界を失った。ぴたっぴたっ。自分の足音ではなく、これは天井からしたたる水の音。私にはもう、足がないのだ。そのうち闇にも慣れてきた。マムシ! 夢中で駆け出したつもりだが、どこまでも闇は晴れない。そして何も知らずに入ってきたトンネル見物客の胴体にからみつく。

※特牛=こっとい 厚狭=あさ 埴生=はぶ 梅ヶ峠=うめがとう 宇賀本郷=うかほんごう


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ツツウラウラ発 おたより劇場

「物語のある居酒屋」は味があっていいですね。ぶらっとリュックを背に旅がしたくなります。もちろん、目的は居酒屋へ行く為ですが…。こんな店で杯を交わしながら話に花を咲かせたいものです。
(42歳 男性 大阪府高槻市)

夫が山口県出身ですが、まだ下関市街へは行った事がありません。角島へは何度も行ってますが。この雑誌を読んで是非歩いてみたいなぁと思いました。金子みすゞの詩が大好きなので、目次上段に可愛らしいイラストと共に書かれていて嬉しくなりました。手軽で上質な雑誌ですね。これからも良い記事をお願いします。
(50歳 女性 東京都世田谷区)

狛犬に主人がハマっていて二人で、町田氏の記事を興味深く読ませていただきました。大分では見ることのない狛犬もあり、「下関行きたいモード」突入です。水族館しか行ったことがなかったのですが、今度は狛犬と市場のお寿司を目的に行きたいと思います。
(28歳 女性 大分県速見郡日出町)

私はNTTのOBで、全国どこでもダイヤルですぐつながる電話にするために、たとえば下関であれば0(市外)8(中国、四国地方)3(山口県)、そして2(下関)と決めた時代に勤めておりました。そのため貴誌名に親しみを持って創刊号から所持、これからも大切にしていきたいと思っています。
(73歳 男性 下関市)

大正元年生まれの母親がよく話してくれていた「下関が生んだスターたち」、とても懐かしい思いで読ませていただきました。坂東玉三郎さんの「日々を真剣に生きて気がついたら人生の終局を迎えていた。それで充分です」、この言葉に感銘を受けました。
(68歳 女性 下関市)

「おいでませ山口館」で買い物をした時に『083』と初めて出会いました。サイズもちょうどバッグに入る大きさで、自宅でじっくり読ませていただきました。読み応えのある充実した内容で、下関に旅をしたくなりました。
(44歳 女性 神奈川県相模原市)

下関はなんとおしゃれな街だろう。「風の正体」を読んで魅せられてしまった。横浜や神戸もそうだが、港町はさまざまな文化が出会い、ハーモニーを奏でてくれる。そのバタくささがたまらなく魅力的だ。この目で確かめたい!
(59歳 男性 福岡県筑紫野市)

先帝祭には下関にいながら一度も行った事がありません。でも記事を読み、その事が恥ずかしくなりました。来年は必ず行こうと思います。また「まんなおし」さんは私のお気に入りの店で、観光施設で働いていることもあり、お客さんにもよく紹介しています。私の下関がこんなに魅力的な町だと『083』さんに気付かされました。ありがとうございます。
(24歳 女性 下関市)

観光で下関に宿泊しました。東京で生まれ育った私にとって海の向こうがすぐ九州という風景は想像の域を越えた眺めで、しかも美しく、ただただ感動でした。街を歩くとすれ違う方が気軽に声をかけてくださったり、あいさつをしてくださったり…。玉三郎さんの記事がでていたので手にした『083』でしたが内容も充実しているし下関の思い出と一緒にずーっと大切に保存します。
(42歳 女性 東京都世田谷区)

下関の歴史と現状を再確認できて参考になります。友人知人へ下関を伝える際に役立っています。「風の正体」ではすばらしい下関の先輩が紹介され、自慢にもなります。
(66歳 男性 下関市)

初めて『083』を手にして、一気に全記事を読ませて頂きました。フリー雑誌で出色の内容です。温泉が好きで別府、湯布院、黒川によく行きます。小倉住まいですが、下関にも意外に温泉が多いのを最近知りました。そのうち温泉特集を出して欲しいと思います。
(67歳 男性 北九州市小倉北区)


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物語のある居酒屋 二軒目

文=野村ゆき
撮影=橘野栄二

竹崎町 活造りの店 味覚

 通りすがりに見つけられる場所ではない。怪しげなピンク色のネオンを放つ数軒を臆せず抜けた先の海岸べたに、この店は佇んでいる。
 それなのに、である。引き戸を開くと現れるロの字カウンターを、分刻みで客が埋めつくしていく。まだ夕方6時前、連休明けの月曜にもかかわらず、だ。
「なんか、見たことある顔やねえ。初めてなん? 気のせいかね(笑)」
 カウンター越しに迎えてくれた店員のお姉さん、いきなりの先制パンチ。きっと、どんなイチゲン客の戸惑いも、こうして一瞬で拭い去ってしまうのだろう。せわしなく動きながらも「手が空いちょるときだけね」と、空いたコップにお替わりを注いでくれるご愛嬌も、たまらない。
「おい、年金!」
 一人で座っていたやんちゃ風の男性客がそう声をかけたのは、後からやってきた年配客。親子ほど年が離れて見える二人が、定位置とばかりに肩を並べ、一緒に焼酎を飲み始める不思議。さらに、お洒落にスーツを着こなした文化人風の老紳士たちが陣取ると、向かい側の客とたちまち会話の投げ合いが始まってしまう不思議。年齢、職業、顔なじみかそうでないか…。そんな無意味な境界線が、このカウンターには、はなから存在しないようだ。
 ふと、目をやった壁のメニューボードには、地物の魚介名が手書きでずらり。店主である江原勝宏さんが毎朝、唐戸市場で目利きし、刺身、揚げ物、煮物、焼き物など、多彩な料理に仕上げているそうだ。値段がどこにも書かれていないが、お姉さんによれば「どれも500円くらいってとこ」らしい。なんと、アバウトな。いや、客でも計算がラクチンな明朗会計と言うべきか。
「刺身がええん? タチ(太刀魚)かタコはどう?」と、お姉さんのすすめで両方を注文すると、驚くほどのボリューム! 隣席の人にお裾分けしたくなるほど。焼酎のペースも、ますます勢いを増しそうだ。
 やがて、店のにぎわいは最高潮に達し、お姉さんたちの声さえかき消されて聞き取りにくくなる。そんな騒がしさも、おおらかなBGMのように感じてしまうから、これまた不思議。旅人にも一人でもふらり立ち寄りたいと思わせてくれる下関の酒場、恐るべし。

※店名揮毫は、店主の江原勝宏さん


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次号予告(2009 年8月31日頃発行予定)
温泉ハイク 涌いてあふれる中にねている 山頭火

編集後記

 毎日片道1時間以上かけて車通勤している私にとって、鉄道は夢のような存在。座っていれば行きたいところに連れていってくれる。そして、忙しなく流れる時間に駅での停車という「間」を与えてくれ、ほっと一息つかせてくれる。駅では客が入れ替わり、その度に違う空間という「間」を生んでくれる。どこにでもありそうな、でもやっぱり下関にしかない、そんな様々な「間」を、関川さん、野村さんを始め、編集スタッフの皆さんと一緒に凝縮することができた一冊になったと感じています。(Y)

 生まれて間もない頃、宮崎の油津から下関市彦島西山へ移り住みました。3歳までの短い期間でしたが、町田忍さんの「彦島は宝島」はどこか懐かしい映像に思えました。子供の頃、夏休みに両親のふるさとの長門市仙崎へ帰る際には、山陰線だと急行「さんべ」と「日本海」、美祢周りだと厚狭駅ホームの「アイスクリン」のおばちゃんの声に心踊ったものです。そんな記憶をたどりながら、今号のビジュアルを展開しました。(M)

 かの有名な「鉄道唱歌」(作詞・大和田建樹)。やっとここで下関を歌ったくだりを一部再録すると、〈満ち引く汐も早鞆の 瀬戸と呼ばるる此海は 源平両氏の古戦場 壇の浦とはこれぞかし〉〈景色のよさに誰も皆 来て住吉の一の宮 あわてて手荷物忘るなよ ここぞ終点下関〉七五調の文語体にこそ味がありますね。今回はJR西日本下関地域鉄道部の皆さまにたいへんお世話になりました。下関駅車両センターで、現役引退して海外輸出間近の旧車輌も見せていただきました。その時、派手な蛍光色の防護服やヘルメットを身につけたことも今はよき思い出。しばらく指差呼称する癖が抜けませんでした。(F)

(写真)一の俣温泉グランドホテルの桶風呂



◇アンケート

『083』は今これを手に取られたあなたのための情報誌です。つねに深い眼差しを心がけて、皆さまの役に立つ情報を、ワンテーマ方式で下関市から発信してまいります。 第4号についてのご感想、及び今後特集してほしいテーマやとっておきのお知らせなどを、綴じ込みハガキでお寄せください。アンケートに回答いただいた方の中から抽選で24ページで紹介した「奥野寿久商店のかまぼこ詰め合わせ」を20名様に、関川夏央氏の著書『汽車旅放浪記』を3名様に、野村佐紀子氏の最新写真集『夜間飛行』を3名様にプレゼントします。応募締切は平成21年8月31日消印有効。当選の発表は発送をもって代えさせていただきます。



リンボウ寸言『鉄道、終着駅、そして人生』

林 望
 私自身は別段鉄道マニアではないのだけれど、鉄道には、そこはかとない郷愁がある。『三四郎』も『雪国』も『暗夜行路』も、みんな鉄道が背景にあった。その同じ意味と重さで、飛行機や自動車を感じることはできまい。そう言えば、音楽や映画の世界だって、鉄道をテーマとするものは数多い。まして「終着駅」の懐かしさよ。みんなここからどこかへ旅立って行って、最後にはここに帰ってくるのだ。されば、鉄道には人生が往来しているのである。下関には、つまり、そういう味がある。



駅の思い出がギュッと詰まった一冊

『下関駅思い出文集』1,000 円
 下関市民や下関駅を往来した思い出のある人たちにとって、三角屋根の駅舎はそれぞれの心象風景と重なるほどに、かけがえのないものでした。だから3年前に焼失後、内外から多くの愛惜の声が寄せられました。下関市では、それらを文集としてまとめました。竣工当時の駅構内、なつかしの名列車列伝、駅レイアウト図などのほか、市出身の著名人を含む300人以上の方のメッセージを収載しています。お入り用の方は、総合政策部広報広聴課までお問い合わせください。

『083(ゼロハチサン)』第4号  うみ やま たいよう

2009年2月28日発行
編集人=福田章 ディレクター=大野金繁 アート・ディレクター=村上行信
写真=橘野栄二 編集委員=林望
発行=下関市 〒750-8521 山口県下関市南部町1番1号 TEL:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
制作統括=(株)電通九州 印刷=凸版印刷(株)
協力=西日本旅客鉄道(株)下関地域鉄道部 下関市の皆さん
アドバイザー 
 下関フィルム・コミッション 常任委員長 冨永洋一
 九州芸術学館山口校 代表 伊東丈年

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