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表紙イメージ
『083(ゼロハチサン)』
うみ やま たいよう
Vol.7
2010年10月1日
下関市発行
表紙写真=志賀智
撮影地=関門海峡
表紙デザイン=毛利一枝
▼テキスト版目次
 
テキスト版へ 2 特集 龍馬の愛が咲いた街
テキスト版へ 4 プレミアム・エッセー 茂木健一郎
「龍馬が歩いた下関」
撮影=大野金繁/浦崎卓也
テキスト版へ 8 そこに愛があるから
下関・歴女紀行〜維新を支えたさまざまな愛のカタチ
取材・文=小坂章子  撮影=志賀智
テキスト版へ 22 NHK大河ドラマ『龍馬伝』三吉慎蔵役
筧利夫スペシャル・インタビュー
インタビュー・構成=井上理津子  撮影=大賀榮一
テキスト版へ 24 ここで一服、甘党タイム
「三好屋」の竜馬コーヒー/「梅寿軒」の梅最中
テキスト版へ 26 ツツウラウラ発おたより劇場
テキスト版へ 27 下関ぶんか人物伝 第1回 田中絹代
文=矢野寛治  撮影=橘野栄二
テキスト版へ 32 リンボウ寸言 次号予告 アンケート&プレゼント



特集 龍馬の愛が咲いた街

NHK大河ドラマ『龍馬伝』放映をきっかけに再燃した空前の坂本龍馬ブーム。
夢の実現に向かって時代を駆け抜けた男を支えたのは、
愛妻お龍や誇り高き長州藩士たちのさまざまな愛のチカラでした。
龍馬がお龍と居を構えた海峡のまち、下関で交錯した愛の物語を、
脳科学者の茂木健一郎さん、歴女ライターの小坂章子さん、
さらに『龍馬伝』で三吉慎蔵役を熱演した
筧利夫さんのインタビューなどでたどります。


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プレミアム・エッセー 脳科学者 茂木健一郎 「龍馬が歩いた下関」

 望ましい英雄の像というものは、時代と共に変わる。 現代にふさわしいヒーローの姿と言えば、坂本龍馬がまず筆頭に挙げられるかもしれない。
 戦国時代の英雄、織田信長の事蹟も偉大だが、何しろいささか乱暴すぎる。「比叡山焼き討ち」のようなことを現代においてされては、困ってしまう。その点、坂本龍馬は、今日を生きる私たちにとっても、大いに参考になる英雄だということができるだろう。
 何かと行き詰まっている今の日本。一つの弊害は、組織の論理が強すぎて個人の創造性を発揮する余地が少ない点にある。坂本龍馬は、26歳の時に土佐を「脱藩」して自由人となった。龍馬の「脱藩精神」にこそ、私たちは大いに学ぶべきではないか。
 「脱藩」してからの龍馬の活躍は目覚ましかった。勝海舟に会いに行き、その見識に感服して弟子入りする。脱藩仲間と、日本初の「貿易商社」である「亀山社中」(後の「海援隊」)をつくる。薩摩と長州を結ぶ「薩長同盟」の仲立ちをする。そして、何よりも最大の業績とも言える「大政奉還」の実現。脱藩して自由となった龍馬は、幕末の日本をまさに「龍」や「馬」のように縦横無尽に駆けめぐったのである。
 坂本龍馬の魅力は、また、人とのコミュニケーション能力、人と人を結ぶ力の中にあった。決して、一人だけで維新を実現できたのではない。他者に共感し、共感を呼ぶ能力の中に、龍馬の躍動の秘密があった。
 もともと、共感に基づくコミュニケーション能力は男性よりも女性の方が高い。龍馬は、実行力という「男性」的な側面と、人の共感を呼び込むという「女性」的な側面の両方を併せ持っていたからこそ、あれだけの活躍を見せることができたのである。
 坂本龍馬は、下関をはじめとする当時の長州藩下の各都市と縁が深かった。薩摩、長州の両藩の関係者と密に連携しながら幕末の日本を「洗濯」した龍馬。とりわけ、高杉晋作とは因縁浅からぬ関わりがあった。小倉戦争では、高杉らとともに闘った。1866年、伏見の寺田屋での襲撃事件に際して反撃するために使われた龍馬のピストルは、高杉晋作が与えたものだとされる。
 1867年初頭、坂本龍馬は愛妻お龍と下関に居を構えた。巌流島にお龍と渡り、花火を楽しんだ。遊郭に行ったことが発覚して、詫びの手紙を書いたこともあった。龍馬とお龍は、下関の地で、普通の新婚夫婦と変わらぬ生活を楽しんだのである。
 もっとも、平穏な生活は長続きしなかった。1867年は、龍馬にとって生涯最後の、そして激動の年となった。亀山社中を海援隊に改組したのが4月。後に明治新政府の指針となった「船中八策」を起案したのが6月。
 10月には、大政奉還を実現する。そして、運命の11月15日。京都の近江屋で何ものかに襲撃され、龍馬は、わずか32年間の短い生涯を閉じるのである。
 時代の奔流をかきわけて疾走したような龍馬の人生。その中で、お龍と過ごした下関での日々は、奇跡的に生まれた日だまりのような時間だったろう。風光明媚な下関の地で、龍馬とお龍は何を見て、何を感じたのか。想像すると、さまざまな思いが込み上げてくる。
 下関は、日本近代の運命を引き受けた地だった。時代の大きなうねりと、その中で営まれる一人ひとりの人生と。その汽水域に、なんとも言えぬ味わいがある。
 私の個人的な話になるが、子どもの頃から、母の実家がある小倉に帰る度に、下関を通った。関門海峡を抜けると、ああ、また九州に来たとの実感が湧いた。巌流島や壇之浦など、海峡の名所を回ったり、下関の街を歩いたことも、何度もある。大人たちがうまいうまいとふぐを食べるのを、何でそんなに騒ぐのだろうと思いながら見つめていたこともあった。
 幼少期に遡る個人的な思い出と、日本の近代史の中における位置付けが相まって、下関はどうしても特別な街のように思われる。言ってしまえば、下関贔屓である。しかし、贔屓にはそれなりの理由があると私は思っている。
 明治維新の立役者となった薩摩と長州の両藩に共通しているのは、どちらも当時の西洋列強と直接闘って、その実力を知る経験をしたということだった。薩摩は、1863年に英国と「薩英戦争」を闘い、鹿児島市内は火の海となった。一方の長州は、1863年から1864年にかけて、英国、フランス、オランダ、アメリカの連合軍と「下関戦争」を闘った。その結果、完膚なきまでに打ちのめされた。
 幕府がまだのんびりと構えている中で、薩摩と長州は、文明のうねりに直接さらされた。その体験を受けて、鹿児島や下関の人たちは、走り始めた。日本を救うために、全力で動き回った。その人たちのおかげで、私たちは今、ここにこうしている。
 熱い思いで精一杯に生きた、幕末の人々。翻って、今日の日本人は、果たして走っているのか。地球を覆うグローバリズムの波や、急速に発展するアジア諸国の実力を、きちんと肌で受け止めているのだろうか。
 現在の日本の停滞を救うためには、新たな「下関」や「鹿児島」が歴史の表舞台に登場して来なければならないのかもしれない。「源平合戦」の締めくくりとなった「壇之浦」の闘いなど、日本の転換点に歴史の表舞台に登場してきた街、下関。またいつか、その役割を果たすべき時が来るだろう。
 下関を訪れる度に、幼い日々の思い出とともに、熱いものが込み上げてくる。坂本龍馬も、かつて、お龍とともにこの街を歩いた。歴史とつながってこそ、人は大切な何かをつかむことができる。

茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)

1962年、東京生まれ。脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京工業大学大学院連携教授。理学博士。「クオリア」をキーワードに脳と心の研究をしながら、文芸評論など幅広く活躍中。2005年、『脳と仮想』で第4回小林秀雄賞受賞。2006年1月〜2010年3月、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』キャスター。著書は『脳とクオリア』『生きて死ぬ私』『芸術脳』『龍馬脳のススメ』など多数。著書などで語るように母方のルーツは北九州市小倉で、下関にもたびたび訪れている。最近では2010年5月30日、シーモールホールで「目からウロコの脳活用法」(主催/カナダ友好協会・NPO法人JACFA下関支部)の題で講演した。

(写真)唐戸市場そばのボードウォークに立ち、潮風に髪をなびかせる茂木健一郎さん。 (撮影=大野金繁)
(写真)火の山展望台へ続く遊歩道から下関市街地を望む。下関港と彦島の向こうに、関門海峡と北九州市小倉の市街地が広がる。 (写真=浦崎卓也)


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そこに愛があるから! 下関・歴女紀行  〜維新を支えたさまざまな愛のカタチ

32歳という若さでこの世を去った幕末のヒーロー、坂本龍馬。
その足跡をたどるべく、歴女ライターの小坂章子さんが、好奇心全開で下関へ向かった。
恋女房のお龍との日々、高杉晋作ら長州藩士との熱い絆など、
長府博物館の学芸員さんの案内で次々に知る新発見に感動。
龍馬の面影を追う旅は、明治維新胎動のまちに惚れて溶けこむ濃厚な時間となった。

取材・文=小坂章子 撮影=志賀智

長府に残る遺品からひもとく龍馬の暮らし

 関門橋の袂、砲台跡から海峡を望む。快晴、凪ぎ。幕末、外国船に逆襲された記憶などみじんも感じさせない、おだやかな関門海峡だ。坂本龍馬(1836―67)も、くしゃくしゃの袴を潮風にはためかせ、この大海原を見つめていたのだろうか。ザザーン――、ザザーン――。寄せては返す波が、私を文久時代(1861―63)へと誘っていく。
 龍馬の幕末ストーリーは、28歳で土佐藩を脱藩するところから始まる。一路 下関で志士のパトロン的存在だった勤王商人白石正一郎邸をめざし、その後、江戸で勝海舟(1823―99)と出会う。「日本をいまいちど洗濯し、正しい国家のすがたに…」という名言はこの頃に生まれた。その後、長崎で海運業社「亀山社中」を立ち上げ、それまで犬猿の仲だった薩長両藩を仲介するため各地を奔走、明治維新の先駆けとなる薩長同盟を締結させた。だが、その短い生涯を終えるまでの約6カ月を下関で過ごし、そのうち2カ月を、お龍とこの町で過ごしたことは意外なほど知られていない。
 まずは、今回案内してくださる学芸員の古城春樹さんが勤める「下関市立長府博物館」へ。2009年8月に『龍馬とお龍の下関 ―海峡に遺した夢の跡―』を出版し、全国の龍馬ファンの注目を集める彼の祖先は鹿児島。今や薩長の志士のごとく、講演のため全国を飛び回る日々だ。さっそく龍馬の遺品の数々を見せていただく。
 古城さんの手の中にあるのは、愛用の亀山焼の飯碗。めずらしい龍の絵柄だが、線がにじんでいるため投げ捨てられていた蓋付の煮物碗を、龍馬がこりゃいいと拾って継いだものと推測されている(お龍が割ったという説もある)。「ぼそぼその固い雑穀ごはんに水をかけて、蓋をしてやわらかくなったところを豪快にかきこんでいたのでしょう」という話に、食欲旺盛な龍馬の姿がうかんでくる。これは後に、長府藩士の中では一番に龍馬と知り合った印藤聿(1831―1911)に餞別として贈られたもので、ご子孫が大事に保管していたらしい。実際に使われていた飯碗をこの目で見ることができるなんて、龍馬を身近に感じるなあ。感心する間もなく、次のお宝が。
 「印鑑付き、しかも遺言状ということで、3000万円くらいするんじゃないかなんて言われる方もいらっしゃいますが、値段云々ではなく世界にひとつのものですから」
 その言葉に、にわか歴女は自然と後ずさり。手慣れた様子でパラパラと和紙を広げている。白い手袋をするより、きれいに洗った素手の方が安全に扱えるという。こ、これが龍馬の生筆跡。「エヘンエヘン」と得意気に姉の乙女に書き送ったやんちゃなエピソードからすると、意外にも端正な印象だが、古城さん曰く「内容が内容だけに他の手紙と比べると、真面目に気持ちを込めて書かれている」
 万一の時は、お龍を頼む。長府藩士の三吉慎蔵(1831―1901)宛てに残された遺言は、いろは事件の談判のため長崎へ向かう船が出る直前に書かれたもの。幕府に襲われた寺田屋事件では、自決を覚悟した慎蔵に、最期まであきらめずに生きるべきだと説得した龍馬。慎蔵を龍馬の護衛と見る説もあるようだが、薩摩の内情を探るために遣わされたというのが正しい。ふたりは、初めて会った時からひと晩では語り明かせないほどに胸襟を開いた、唯一無二の親友だったのだ。
 万緑に包まれた功山寺にある三吉慎蔵墓所。奔放に生きる龍馬と、実直な人柄の慎蔵は、奇遇にも次男同志。だからウマがあったのかも。彼らの友情を想い、慎蔵の墓石に手を合わせた。

(写真)右/美しく掃き清められた功山寺仏殿(国宝)の前で古城さんの幕末レクチャーを受ける筆者。
(写真)左/「坂本龍馬愛用の飯碗」(下関市立長府博物館 蔵)は、亀山焼ではめずらしい龍の絵柄が特徴。ガラス粉で丁寧に焼き継ぎされている。
(写真)右上/坂本龍馬直筆の遺言状。現代語訳(要約)は以下。(今回の長崎行きは、以前にお話したとおり、いろは丸事件の話し合いのためですが、万一、自分が死んだという報せがあったときには、妻を私の故郷である土佐(高知県)へ送り返してください。その時には、土佐より使用人と老婆一人を、お宅まで行かせます。迎えの者が来るまでの間、どうか妻をそちらでお預かりください。ぜひとも、よろしくお願いします。(慶応三年〔一八六七〕)五月八日 (坂本)龍馬 (三吉)慎蔵) 包み紙には〈出帆時ニ認而家ニ止ム〉とあり、龍馬の変名「才谷梅太郎」を表わす梅模様の印が押されている。(下関市立長府博物館 蔵)
(写真)右下/71歳で他界した三吉慎蔵の墓は、功山寺の国宝仏殿の真裏にある。毎年、墓参りに訪れるファンも多い。
(写真)左上/鎌倉時代に創建された功山寺山門の堂々たる佇まいは、圧巻。秋には、燃えるような紅葉を見物に多くの人々が訪れる。

老若男女のハートをわしづかみ

 夢や希望に満ちあふれた好奇心旺盛な人物。打てば響く行動力と、人の心を動かす情熱を兼ね備えている上、次男坊で甘え上手、ユーモア満点ときたら、そりゃあ女性は放っておかないだろう。
 そんな龍馬のお眼鏡にかなった最愛の妻、お龍(楢崎龍1841―1906)について調べてみると、細面の美人顔からは想像できないエキセントリックなエピソードがわんさか。寺田屋事件では、風呂から飛び出し龍馬と慎蔵に危険を知らせたとか、新婚旅行で訪れた霧島山の天の逆鉾を面白半分に抜いたとか、男装して龍馬たちと連れだって飲みに出かけたとか、ひとたび怒ると茶碗などを庭の石に投げつけてうっぷんを晴らしたとか……。龍馬は、そんな跳ねっ返りのお龍を「突飛な女」と面白がり、姉の乙女に「この龍女がおればこそ、龍馬の命はたすかりたり」などと書き送るのだから包容力がある。
 ふたりは、龍馬の経済的支援者だった伊藤九三(1830―72)邸のわずか3帖の部屋を「自然堂」と名づけ、つかのまの新婚生活を送っている。月明かりのもと、龍馬のリクエストで習い始めたお龍の月琴に耳をかたむけ、夫婦水入らずの晩酌を楽しんでいたのだろう。
 巌流島のエピソードは、さらに微笑ましい。お龍の述懐によると〈或晩龍馬と二人でこッそりと小舟にのり、島へ上がって煙火を挙げました〉というからびっくり。当時の花火って!?
 「火の玉みたいなのろし花火を龍馬自ら調合して、実験がてら上げたのでしょう。私はこれを恋の花火と名づけ、講演で話すと盛り上がるんですよ」と古城さんが笑顔を見せる。
 夕刻、定期船で巌流島に初上陸。宮本武蔵と佐々木小次郎の像がある小高い丘に立つと、本州と九州を結ぶ関門橋が一望できる。「ふたつの島陰は、龍馬とお龍が手と手を結びあっているようにも見えませんか」という古城さんのロマンティックな話に耳をかたむけつつ、ふと足下を見れば、ん、幸せを運ぶ四つ葉のクローバー発見!
ここぞとばかりに目を皿のように探した。当時はこんな外来種はなかっただろうけど、案外、お龍も龍馬そっちのけで自分の世界に浸っていたのかもしれない。
 帰りの船から、空に向かってそびえるモニュメント「青春交響の塔」が見えた。高杉晋作(1839―67)と龍馬の友情に思いを馳せ、カメラを向けた。
 その夜は、かつては華やかな遊郭街として知られる末広稲荷神社周辺の料理屋でひれ酒など少々。酔いが回るにつれ、ふぐ刺をつまみながら龍馬と差しつ差されつ…なんて妄想に浸る私は、すでに立派な歴女でしょうね。しかし、龍馬も罪な男だ。遊廓から朝帰りした時も三味線片手にお龍にあてた歌を贈り、笑わせてケムに巻いてしまうのだから。きっと理屈じゃない部分でこの人なら仕方ないと思わせてしまう、そんな人間味あふれる人徳があったのだろう。

唐戸に再現された「自然堂」 〜幕末維新村〜

 維新を感じ語り合える幕末の聖地”をテーマに、唐戸ドームそばに開館した「幕末維新村」。2階には、幕末歴史ファンの市民らによって再現された「自然堂」がお目見え。龍馬とお龍の終の住処となった3帖の部屋には、愛用の亀山焼にふぐ刺が盛られたいつもの晩酌風景がセットされている。薄闇に響く波音まで聞こえてきそうなほどリアルだ。他にも遊廓の一室、龍馬の刀のレプリカなど幕末に生きた志士達の魅力がぎっしり詰まっている。 (下関市赤間町4-9/083-232-9338/10時〜17時/水曜休み/2階200円)

(写真)右上/唐戸に再現された「自然堂」
(写真)右下/あるかぽーとに建つ「青春交響の塔」
(写真)左/龍馬とお龍が新婚生活を送った「自然堂」は、実に質素な印象。「幕末維新村」に再現されている。和ろうそくに照らされた膳には、下関名物のふぐ刺と酒が並んでいる。

幕末のアイドル晋作は現代のサムライジャパン!?

 翌朝は、高杉晋作の墓がある「東行記念館」を訪れた。長州藩士の長男として萩に生まれた晋作は、松下村塾に入門。努力家の晋作はめきめきと力をつけ、奇兵隊を組織し、明治維新に大きな功績を果たすが、27歳という若さで病に倒れてしまう。龍馬と晋作は、ともに世界を見据えた同志。寺田屋事件で龍馬と慎蔵の命を救ったピストルは晋作の贈り物だったという記録からも、命運を契った深い間柄であることがうかがえる。
 さて、歴女から「晋さまぁ〜」と騒がれる幕末のアイドル晋作の地元での人気は、龍馬以上。最近では、2010年FIFAサッカーワールドカップで大活躍した本田圭佑選手と晋作が瓜ふたつという説がツイッターで呟かれるなど、話題に事欠かない。そもそも世界を相手に闘う“サムライジャパン”の元祖は、幕末の志士たちだと思うのだけど。
 そんな晋作は、芸者上がりの愛人おうのを誰より愛した。晋作亡き後、若くして出家し、生涯晋作の墓を守って暮らした一途なおうのに、晋作は英国製の鞄をプレゼントしている。ビロード地に艶やかな花柄模様、総革張りの裏地、真鍮に銀メッキの口金をあしらった高級バッグは、さしずめ今のルイ・ヴィトンか。
同館学芸員の溝口純一さんによると「保管状態が万全でないので鞄を開けることが不可能なんです」とのこと。よほどお気に入りだったのか保管状態のせいか、革の持ち手はボロボロ。残念だなあ。もしかしたら鞄の中に歴史の鍵を握る重大な何かが入っているかもしれないと考えると、ワクワクするのだけど。
 古城さんは、晋作をこう分析する。
「龍馬同様、晋作にも男としての魅力がある。強い信念と奇想天外な行動は、どこか神秘的で人を魅了する。しっかり者の正妻お雅と、癒し系の愛人おうの、そして最期を看取った母親的存在の野村望東尼と、3人の女性にそれぞれ違うものを求めたんでしょうね、もてる男は羨ましい。ははははは」
 愉快な本音トークをすかさずメモする歴女であった。
 結核という不治の病を抱えつつも、世界を飛び回り、浴びるように酒を呑み、「平生はむろん、死地に入り難局に処しても、困ったという一言だけは断じて言うなかれ」などの強気な名言を残した晋作。女性はこのように何を考えているのか掴めないアーティストタイプにも翻弄されるんだよなあ。正妻のお雅に対しては亭主関白、愛人おうのの前では甘えん坊と化する晋作。幕末の男の七変化にはかないませんなあ。

腹がへっては“歴女”はできぬ〜 人気再燃の「晋作餅」

 「東行記念館」前の「清風亭」などでは、高杉晋作の生誕120年(1987)忌を記念して作った晋作餅がひそかにブーム。手作りの小豆あんを赤紫蘇を刻んだ餅でくるみ、鉄板でこんがり焼いたものを、梅酢に漬けこんだ紫蘇の葉でくるむ手のこんだ下関銘菓は、甘辛の加減が絶妙。その上品なお味は、全国を行脚する歴女の皆さんにも大好評。下関市菓として、市内各所でも販売されている。1個95円と心優しきお値段です。

■清風亭

下関市吉田町1179-1/083-284-0884/9時〜17時/不定休

(写真)文中
(写真)右/高杉晋作は龍馬と熱い心の交流があった。時に「馬より長い」と評される顔にも、個性と野望とが凝縮している。(肖像画提供=下関市立長府博物館)
(写真)中/高杉晋作が坂本龍馬に護身用として贈ったといわれるピストル「スミス&ウエッソン第・型(32口径・米国製・六連発)」のレプリカ(下関市立東行記念館 蔵)。
(写真)下/晋作餅を食べる筆者(右)
(写真)右/高杉晋作が愛人おうのに贈ったとされる長崎土産の「梅処尼愛用鞄」(下関市立東行記念館 蔵)。当時、かなり高級品だった。
(写真)右/1863年に結成された「騎兵隊及び諸隊士顕彰墓地」。当時10〜20代だった青年の墓地を全国から集め、供養している。ボランティア・グループ「箒の会」の方々が月に1回、一帯を掃き清めている。

大好きだった下関の地で生き続ける龍馬の魂

 龍馬が京都の近江屋で凶刃に倒れた翌日、お龍の夢には「全身朱に染まり血刀 を提げてしょんぼりと枕元に座っている(立っている)龍馬」が出てきたという。法事の最中、身を切られるような哀しみに絶えられなくなったお龍は、衝動的に手にした鋏で自分の髪の毛をすっぱり切り、龍馬の霊前に供えた。その後再婚したが、生涯通して偉大なる夫、龍馬の話ばかりしていたという。
 しかし、これほどまでに老若男女に親しまれる人物がいるだろうか。史学界では、歴史をひも解くにあたっては、残された史実に基づき、冷静に歴史を分析する見方が主流というが、下関の人々と龍馬の間に生まれた絆は、いろんな文献や遺品から見ても非の打ちどころもないほど明らかだ。現に、日本に現存する龍馬の肖像写真6種のうち、銅像のモデルにもなった1種を含む4種は、下関の関係者宅で大切に保存されていた。さらに龍馬が書いた約140通の手紙のうち、2割以上は下関の友人に宛てたものだった。また「才谷梅太郎」という龍馬の印が押された資料3点のうち、2点が長府博物館に収蔵されている。これらが意味するものは何なのか。巌流島に渡った時、古城さんが汗をぬぐいながら言った力強い言葉が蘇る。
 「龍馬は、大好きな下関の人たちに自分自身を残しておきたかったんだと思います。下関は、政治・経済活動ができ、最愛のお龍と暮らすにも適していた。そして殿様から村人まで誰もが、龍馬のことを高く評価し、応援していた。だから龍馬もこの街を選び、愛した。龍馬との日々は、下関市民の誇りです」
 幕末をともに闘い抜いた、長州の志士との熱い友情。下関の人々との心あたたまる交流。妻と愛人、それぞれの立場から支え続けた男女の深い愛。根底には、自らの夢に向かって真摯であろうとする龍馬への憧れや共感、そして広い意味での愛が流れていたのではないだろうか。「1000年や2000年では、人間の根本的な部分は変わりません。彼らの生き方は、私達にいろんなヒントをくれる」という古城さんの言葉を反芻しながら、海峡を見つめた。漁り火が志士たちの命の煌めきのごとく、この港町を照らし続けている。

小坂章子(こさか・あきこ)

1974年、長崎県壱岐市生まれ。山口県立大学(旧山口女子大学)文学部卒業後、福岡市を拠点に活動するフリーライター。手仕事や伝統工芸、旅、暮らし、インテリア、人物などをテーマに取材。著書に『徒然印度』、『福岡喫茶散歩』、『九州喫茶散歩』(いずれも書肆侃侃房)。

第一義 天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問に供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ 朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ現今有名 無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新ニ無窮ノ 大典ヲ定ム律令既ニ定レバ 諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下 を率ス
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ 外国と平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ッテ云々、 ○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ 朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ 公布云々、強抗非礼公議ニ 違フ者ハ断然征討ス、権 門貴族モ貸借スル事ナシ

慶応丁卯十一月  坂本直柔

(写真)上

僕も「坂本龍馬」です〜1年間限定雑誌『RYOMA』編集長

 「はじめまして、坂本龍馬です」。こんな書き出しで、雑誌やブログをはじめて、約9カ月が経過した。2010年はNHK「大河ドラマ」もあり、空前の坂本龍馬ブームがくるはず。どうせブームになるならとことん乗っかってやろうと、09年10月にプロジェクトチームを始動した。龍馬ゆかりの高知、長崎、京都へは毎月のように出かけている。下関にも10年5月に訪れた。ご存じのように龍馬とお龍さんが暮らした街だ。歴史のある街というのは、肌にその感覚が伝わってくる。龍馬や高杉晋作の魂が今も息づいている感じがして、心惹かれる。難しいが、その息づかいを読者に伝えたい。テレビであろうが、ブームであろうが、どんな理由であれ、龍馬や日本の歴史に接することはいいことだと思う。この坂本龍馬ブームを一過性で終わらせたくない。そして海外の方にも知って欲しいというのが夢であり、今後の課題である。

坂本龍馬(さかもと・りょうま)

歴史上の偉人と同姓同名の出版社社員。祖先は高知出身で娘の名前も竜(りょう)。2010年は龍馬の生まれ変わり(?)として、コスプレなどで全国を駆け回る日々。身長177センチ、靴のサイズ26.5センチとサイズも龍馬級。1972年、東京生まれ。『RYOMA』(主婦の友社)は1年間限定でVOL.4(2010年9月末発行)で完結。VOL.4には下関の記事も掲載されている。オフィシャルブログ「龍馬なう」=http://blog.shufunotomo.co.jp/ryoma/

(写真)文中

龍馬の愛が咲いた下関マップ

イラスト=溝渕可央梨 熱い2人に誘われて、維新の夢をたどりましょう!
下関市立東行記念館/ 高杉晋作の墓/ おうのの墓/ 小月IC/小月駅/王司PA/小月バイパス/長府駅/中国自動車道/功山寺・三吉慎蔵の墓/ 下関市立長府博物館/下関IC/みもすそ川公園長州砲レプリカ/壇之浦PA/めかりPA/ 末広稲荷神社/伊藤九三邸跡/青春交響の塔/白石正一郎/邸跡/巌流島/門司港IC/門司IC/ 福江駅/安岡駅/梶栗郷台地駅/綾羅木駅/新下関駅/幡生駅/下関駅/門司港駅

下関市観光ホームページ

http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/

下関市立長府博物館

083-245-0555

下関市立東行記念館

083-284-0211

(写真)右/高杉晋作の墓(P.16) 中上/下関市立長府博物館(P.10) 中下/伊藤九三邸跡(P.13) 右下/巌流島(P.14)
(写真)左/末広稲荷神社(P.14)


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「槍の慎蔵」見参!

NHK大河ドラマ『龍馬伝』で長州藩士・三吉慎蔵役 筧利夫スペシャル・インタビュー
人気沸騰の『龍馬伝』に長州の陰のヒーロー三吉慎蔵役で出演し、見事な殺陣を披露した筧利夫さん。
あの「寺田屋事件」収録当日に、ドラマに賭ける熱い思いを語っていただいた。

インタビュー・構成=井上理津子 撮影=大賀榮一

筧利夫(かけい・としお)

1962年、静岡県生まれ。大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科卒業。俳優。92年のTBSドラマ『ホームワーク』に福山雅治の上司役で出演し、脚光を浴びる。映画『踊る大捜査線』の管理官新城賢太郎役、舞台『広島に原爆を落とす日』、『飛龍伝』など、出演作品多数。つかこうへい演出の舞台にも主役で登場している。今後の出演作として、舞台『じゃじゃ馬馴らし』10月14日〜30日さいたま芸術劇場、11月5日〜7日北九州芸術劇場、11月12日〜17日梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ。公式サイト=http://www.kakei.jp/
ブルース・リーの殺陣をイメージ

 三吉慎蔵さんは、下関ではヒーローですよね。僕は今回の役がきて初めて、重要な役割を果たした槍の名手と知りました。
 4話に出ましたが、僕の“メインイベント”はなんといっても第36回の寺田屋事件の殺陣。台本を読んでまず思ったのは、どんな殺陣になるだろうということでした。
 「槍の慎蔵」と呼ばれるくらいだから、殺陣のシーンを明確にかっこよくやることイコール三吉慎蔵を演じるということだと考えました。槍の殺陣は初めてだし、手数が多いし、たいへんでしたが。
 イメージしたのは「燃えよドラゴン」に出てきたブルース・リーの殺陣と、その精神。みなさん、あの“決まり”のシーンを覚えていますよね? あれと同じように、『龍馬伝』における決まりのシーンを、僕の殺陣で見せたいと思ったんです。薩摩屋敷に助けを求めに行く途中、敵方に囲まれるところなんて、13対1だったんですよ。

慎蔵さんは龍馬の命の恩人です

 慎蔵さんはほんとうに強かった。龍馬さん、手の指の根元をざっくりと斬られ、死んじゃってもおかしくないのに、奇跡的に助けたんですからね。自分で言うのも何ですが、筧利夫演じる慎蔵さんはものすごくかっこよかったはず(笑)。各地にいらっしゃるご親族の方々にも喜んでもらえたのではないでしょうか。
 龍馬さんは慎蔵さんのことを「親友」と言ったそうですが、慎蔵さんにとってはちょっと違う気がします。親友というより、龍馬を助けるために決死の闘いに挑んだのは、長州藩士としてのミッション以上のものがあったに違いない。慎蔵さんは龍馬さんを、薩摩と長州をまとめるなんてスゴいことをやってのけた人だと崇拝していた。だからこそ、身を挺したんだと思いますよ。

三吉慎蔵のままで下関へ行きましょうか?

 のちに龍馬に「もしものときは、お龍と妹の君枝を頼む」とまで言われた慎蔵さんは、維新の陰の立役者ですよね。それなのに、これまであまり全国区で取り上げられず、今回の『龍馬伝』が、慎蔵さんをフィーチャーする初めての機会だったのではないでしょうか。そのお手伝いができてうれしいです。
 ところが実は、僕はまだ下関に行ったことがないんです。放送のあと、「慎蔵」「三吉」「槍」とかいう名前のお店もいっぱいできたはずなので(笑)、今後、下関ゆかりの人をテーマにお祭りをやることにして、第1回を三吉慎蔵にして、ぜひ僕をゲストに呼んでください。功山寺にある慎蔵さんのお墓にも参りたいですし、ね。(談) 

(写真)筧利夫(かけい・としお)
(写真)NHK『龍馬伝』(毎週日曜午後8時放送)で、坂本龍馬を演じる福山雅治さん。


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ここで一服、甘党タイム

カップの中の龍馬と口づけ
洋菓子と喫茶「三好屋」の龍馬コーヒー

 「シンプルで飽きのこない美味しさ」を掲げる街の老舗洋菓子店で発見した「龍馬コーヒー」。陶製の器に注がれたカプチーノには、ココアやシナモンパウダーで龍馬の顔が描かれている。龍馬の顔をくずさないよう慎重に口をつけると、ほんのり甘い。「バニラ、キャラメル、シナモンの中から、お好きな味が選べます。型を乗せて上から粉をふりかけるだけだから、作り方は簡単ですよ」と微笑むのは帽子がお似合いの3代目三好博康さん。舶来モノに敏感な龍馬のこと、きっとコーヒーだって飲んだに違いないと妄想が広がる一杯だ。

■三好屋(みよしや)

下関市唐戸町3-19  083-222-3087  9時30分〜19時  年中無休(元日のみ休み)

(写真)右/龍馬コーヒー450円、ケーキ270円〜)
(写真)上/物腰ソフトな白衣のオーナー、三好博康さん。
(写真)下/唐戸銀天街でもひときわ都会風。
撮影=志賀智

一世紀を超える老舗の甘き追憶
「梅寿軒」の梅最中、わかめ餅、いしごろも

 創業明治36年(1903)以前という老舗の菓子店。和菓子の真髄ともいえる小豆を精選してつくった梅最中は、何ともいえない上品な甘さが口にのこる。和布刈の神事にちなむわかめ餅は、ふんわりした餅の中にワカメが香って、まさに港町の風味だ。店主の倉本雅通さんは中学生の頃まで、ご近所住まいだった下関本陣主・伊藤九三の子孫の方に可愛がられて、頭をバリカンで坊主刈りにしてもらっていたという。その方は、賞状などに文字を入れる書家だった。若い店主の思い出が、維新の記憶をにわかに甦らせてくれる。それも老舗の味かもしれない。

■梅寿軒(ばいじゅけん)

下関市中之町8-24  083-222-2372  8時〜18時  日曜休み

(写真)左/梅最中大納言6個入り861円、わかめ餅6個入り735円、いしごろも8個入り525円
(写真)上/いつも笑顔で対応してくれるスタッフ。
(写真)下/店構えにも老舗の風格が感じられる。
撮影=大野金繁


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ツツウラウラ発 おたより劇場

 祖父宅へ行った時、功山寺への散歩の途中に発見。表紙の絵に惹かれて思わず手に取り、フリーに驚き、迷わず持ち帰りました。内容も酒飲み夫婦にとってはたまらないもので、家にきた友人たちにも読んでもらおうとトイレに備え付けております。
(29歳 男性 兵庫県宝塚市)

 下関には1泊旅行によく行きます。海響館にペンギン村ができたので、またぜひ見に行きたいと思っています。今年は龍馬ブーム。龍馬が下関にいたとは知りませんでしたが、明治維新のことを勉強してから訪ねると、もっと楽しくなりそうです。
(32歳 女性 山口県岩国市)

 下関は港町のイメージが強く、レトロでハイカラな印象があり、表紙の絵はぴったりです。関門海峡の花火や海峡ゆめタワーなど、思い出がいっぱい。ロマンティックなロケーションの多い下関、ますます盛りあがってください。
(36歳 女性 東京都江戸川区)

 現在は東京で仕事をしているため、両親の住む北九州に年に3度、帰省します。スターフライヤー機内で貴誌を手に取りました。北九州に帰ると、必ず門司から人道トンネルを歩いて、下関へ行きます。源平合戦を想像しながら海を眺め、潮の流れや波の音を聞きながら、門司へ。英気を養って、東京へ戻ります。
(42歳 女性 東京都国立市)

 私は下関が大好きです。とても味のある町だと思っています。中学を卒業してから東京にいましたが、下関のよさを皆に知ってもらいたいと、いつも思っていました。下関をおしゃれに、魅力的に描いてくださって、ほんとうにうれしいです。もっともっとPRしてください。
(37歳 女性 北九州市小倉南区)

 下関を離れて36年。帰関する度に町が寂しくなり、活気を取り戻してほしいと思っていたところ、初めて『083』を見て、別な印象の古里に感激しました。
(59歳 女性 栃木県宇都宮市)

 現在は東京で仕事をしているため、両親の住む北九州に年に3度、帰省します。スターフライヤー機内で貴誌を手に取りました。北九州に帰ると、必ず門司から人道トンネルを歩いて、下関へ行きます。源平合戦を想像しながら海を眺め、潮の流れや波の音を聞きながら、門司へ。英気を養って、東京へ戻ります。
(42歳 女性 東京都国立市)

 私は下関が大好きです。とても味のある町だと思っています。中学を卒業してから東京にいましたが、下関のよさを皆に知ってもらいたいと、いつも思っていました。下関をおしゃれに、魅力的に描いてくださって、ほんとうにうれしいです。もっともっとPRしてください。
(37歳 女性 北九州市小倉南区)

 下関を離れて36年。帰関する度に町が寂しくなり、活気を取り戻してほしいと思っていたところ、初めて『083』を見て、別な印象の古里に感激しました。
(59歳 女性 栃木県宇都宮市)

 前回は岡山県の道の駅、今回は周防大島の道の駅で入手しました。目次の金子みすゞの詩に感動しています。神奈川県川崎市出身の私は大洋ホエールズのエピソードも興味がもてました。
(44歳 男性 岡山県倉敷市)

 カクテルの好きな私、レストラン・ヴィアージュの支配人がつくってくださるのだけが下関で飲めるカクテルと思っていたので、酒場特集がありがたかった。いっしょに行ってくれる連れを探さなくてはなりません。
(58歳 女性 下関市)

 故郷は遠きにありて…とは、よく言ったものです。18歳で下関を離れて、岡山の造船所に勤務すること39年。豊前田の夜をこよなく愛せる酒飲みに成長(?)しました。たまの帰省では、関門海峡を行き交う船を眺め続けます。長男は晋平(晋作より)、次男は龍平(龍馬より)と名づけました。下関は今も胸の中に深く位置しています。
(57歳 男性 岡山県玉野市)


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下関ぶんか人物伝 第1回 田中絹代   Kinuyo Tanaka

「田中絹代ぶんか館」は、下関の贖罪です。〜作家・古川薫氏談

文=矢野寛治 撮影=橘野栄二

 芸どころにして文化のまち、下関は数多くの才能を生みだしてきた。 それら偉大な人物たちの足跡をたどり、魅力にふれてみたい。 第1回は名女優の田中絹代さん。2009年の生誕百年を記念して、 2010年2月に開館した「田中絹代ぶんか館」で、その人生と作品にふれることができる。 映画通のコラムニスト、矢野寛治さんが同館を訪ね、 絹代の墓所がある鎌倉紀行をまじえつつ、絹代へのオマージュを綴る。

田中絹代(たなか・きぬよ)

1909年11月29日、下関市丸山町生まれ。14歳で銀幕デビューを果たし、17歳で主演に抜擢され、77年に67歳で没するまでに約250本の映画に出演。女優としては日本初の映画監督となり、6作品を発表したことでも知られる。

写真提供=芸游会

あなたこそが日本一の名女優にして、大女優です!

 田中絹代生誕百年の昨年、もう1年前になるか、篠つく雨の中、私は横須賀線北鎌倉駅に降りた。  踏み切りを渡り、円覚寺の山門をくぐり、まず本堂にお参りをする。左に折れて、右に行き、塔頭の松嶺院を目差す。院の小さな門をくぐり、塀沿いに左に行き、突き当りを直角に右に行く。細い石段があり、この石段を登りきると墓地に出る。まず開高健さんのお墓を見つける。まんまの大石をデンと置いた豪快なものである。開高さんの手前を左に5メートルほど行くと、目差す田中絹代さんのお墓がある。大きな楕円型の石の右側に、田中さんのお顔がブロンズでレリーフされている。 雨の道中、私はずっと考えていた。
 日本一の女優さんは誰だろうと。候補は3人いる。まず田中さん、次に山田五十鈴さん、そして高峰秀子さんである。大女優と云うのは、私の定義ではピン(主役)が多くなくてはならない。大について、このお三方はいずれも遜色がない。次に条件として、名女優でなくてはならない。名女優とは当然演技力である。ベル(五十鈴)さんは、19歳で出演した名作「浪華悲歌」(溝口健二監督)、長谷川一夫を喰うほどの「鶴八鶴次郎」(成瀬巳喜男監督)、おどおどしながらも森繁に執着する「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)がある。すべて文句なしの巧演である。片やデコ(高峰秀子)さんは、男と女の腐れ縁の名作「浮雲」(成瀬巳喜男監督)、林芙美子の生涯を演じた「放浪記」(同)、若き日の「馬」(山本嘉次郎監督)、囲われ女の悲恋を演じた「雁」(豊田四郎監督)、天下の名作「二十四の瞳」(木下惠介監督)がある。すべてに真演である。
 さて、田中さんである。23歳で15、6の娘を演じた「伊豆の踊子」(五所平之助監督)、太鼓を重そうに背負った姿は本当に島から来た世間知らずの田舎娘。多くの女優さんでリメイクされたが、見比べれば田中さんが一等賞である。「西鶴一代女」(溝口健二監督)の凄みは唸る。大女優がここまでの汚れ役をやるものか。女が堕ちていく流転の映画であるが、最終老残夜鷹の成りきりは空前にして絶後、ヴィヴィアン・リーが演じた「欲望という名の電車」(エリア・カザン監督)のブランチに優るとも劣らない。「雨月物語」(同)での、死しても夫森雅之の帰りを待ち続け、一夜、亡霊となって夫に尽くす。
 幽明の際を行きつ戻りつしての静かな演技力で、朽木屋敷の京マチ子を喰っていた。「楢山節考」(木下惠介監督)での、息子高橋貞二を、雪に埋もれながらも追い返す母心は神掛かっており、思わず手を合わせてしまう。リメイク版(今村昌平監督)では、坂本スミ子さんが熱演したが、田中のおりんには敵わない。日本屈指の名作に「流れる」(成瀬巳喜男監督)がある。田中、山田、高峰が共演し、競演している。傾きかけた芸者置屋の女将に山田、置屋と云う商売が大嫌いな娘に高峰、その置屋の女中に田中、実は原作者幸田文の役である。山田が動で迫れば、田中は静で受け流す。動と静の狭間で、動静中間の演技の高峰。この三つ巴は、田中に僅差であるが軍配は上がる。静の演技ほど難しいものは無い。この映画には、田中が若き日に憬れた栗島すみ子が出ている。二人の対峙するシーンが善い。栗島が田中を見込んで、お金を出すから、女中をやめて料亭をやらないかと云う。田中は微笑をもって、丁重に断る。両大女優の名場面である。
 雨の墓場には誰も居なかった。横なぐりの風雨に変わり、私の下半身はずぶ濡れとなった。「流れる」を彷彿しながら、私は傘をはずし、大きな声で、「田中さん、あなたこそが日本一の大女優にして、名女優です!」と二度叫んだ。
 墓前にステンレス製の名刺入れがあった。誰が読むのだろうか、天国の田中さんか。私は名刺を入れて、深く一礼をし、松嶺院を去った。

(写真)館内には田中絹代主演作品の数々がパネルで展示されている。
(写真)/右)大竹しのぶさん、松坂慶子さんら、田中絹代賞受賞の女優たちのメッセージも興味深い。 左)絹代の自宅イメージも再現。

巧演、真演をこえて、神演の女優。

 お参りをしたせいであろうか、昨年は田中さんを語る講演を三度もさせて頂いた。田中さんの生い立ちは、『花も嵐も 女優田中絹代の生涯』(古川薫著)と、「私の履歴書 田中絹代」(日本経済新聞、昭和50年3月連載)に詳しい。田中さんは6歳の時に、下関をまさに石もて追われ、大阪の下町も下町、貧しい天王寺に移る。きっと長い年月恩讐をこえられなかったであろうとご推察する。幼き日より、琵琶少女歌劇団に入り、一家の糊口をしのぐ大黒柱となる。14歳で松竹下賀茂撮影所に入り、田中さんの人生の快進撃が始まるのである。
 実は先述の名作よりも、私自身、他に好きな映画がある。それは、「おかあさん」(成瀬巳喜男監督)である。戦後間もない、戦災で焼け出された家族のお話し。息子の片山明彦は肺結核で死ぬ。サナトリウムを抜け出し、かあちゃんのそばで死にたいと戻ってくる。クリーニング屋を建て直すために働きずめに働いた夫三島雅夫も病に伏し、息を引き取る。この時、田中は暮れなずむ往来に出て、エプロンで顔を覆い、しゃがんで泣く。昔、私の母も露地の隈でしゃがんで泣いていた。私はこのシーンでいつも泣く。日本のおかあさんは戦後みんなこうして泣いていた。いろいろな女優さんが日本の母と称されたが、誰が何と云おうと、私の日本の母は田中絹代さんである。
 次の凄いのが、「風の中の牝 」(小津安二郎監督)、戦後の下町、幼子をかかえ田中は夫の復員を待っている。売り食いのタケノコ生活、子供が病気をし、入院する。すでに借金のあてはなく、入院費のために切羽つまり、一夜身をひさぐ。夫佐野周二はそれを知り、悩む。理性では許せても、感情が許せない。田中の階段落ちも凄いが、最後佐野が感情をのり越えて、妻田中を抱擁する。そこで田中は夫の背で合掌し、拝むのである。
 身の不幸、苦悩、家庭をもたず、子も持たない彼女が、なぜもこう見事に演じえたのか。私は思う。すべては、下関をさるときに去来した寂しさ、侘しさ、切なさが大きな演技の元になっているのだろうと。それは、「陸軍」(木下惠介監督)の最終10分間にも云える。陸軍省の国策映画であるから、話は荒唐無稽であるが、息子を前線に送る時の母の無言劇、死ぬなと祈っている。やはり最後、福岡24連隊が博多の目抜きを行く。田中は追う、追って追って、やっと息子を見つけ、何度も頷き、哀しくほほえむ。呉服町の四つ角を右に折れる時、息子の背に合掌する田中の姿の神々しさ。
 田中の演技を言葉にするならば、「神演」と表現したい。
 田中さんの「私の履歴書」での述懐をご紹介したい。「今の数え方で六歳のときに大阪へ移り住んだ私にとって、生まれ故郷の下関という土地は、若いころには、それほどなつかしいという感じもありませんでした。しかし、しだいに年月を重ねるにつれ、時おり先祖の墓参などに帰るたびに、ああ、やはり、ここは自分のふるさとなのだ、という思いを強く抱くようになってきました。」
 田中は新聞紙上でふるさとを許した。

(写真)郷土の先達に対しての温かい敬意を語る古川薫館長。

下関中央霊園「A-15」区画、 田中家のお墓に参る。

 久々に下関を訪う。子供の頃、よく父に連れられて長府の乃木将軍の生家へ行った。私をうめぼし好きにするためであった。まず先達のご案内をえて、下関中央霊園のA- 15区画の左一番奥にある、田中家のお墓に参った。お墓の側面に父久米吉と母ヤスの名が彫られている。裏面に建立者として兄2名のお名と田中絹代と彫られている。昭和12年に田中が建てたものだ。「昨年の雨の鎌倉以来です」とお参りした。左側に小林正樹監督の名が彫られた小林家のお墓がある。田中さんとはまたいとこの名監督である。お墓を辞し、田中町の下関市立近代先人顕彰館に向かう。このクラシックな大正調の建物の2階に「田中絹代記念館」がある。年譜パネルがあり、絹代さんの生涯のショート・ビデオも流されている。奥には出演された数々の名作のパネルがあり、1000点に及ぶ遺品も展示されている。赤漆衣装箪笥、金箔の蝙蝠の吉祥紋が施されている。ガラスケースの中に田中さんが使用された緑のハンドバックが飾られている。よほど愛用されたのであろう、皮がくたくたで味わい深い。名誉館長の古川薫先生(『漂泊者のアリア』で第104回直木賞受賞)とお会いできる僥倖を得た。もう85歳におなりになられるが、矍鑠とされていて、黒縁眼鏡の向うの目は鋭く、それでいて優しい。1時間ほど、お話しをさせて頂いた。一番お好きな映画をお聞きすると、即座に、「サンダカン八番娼館望郷です。栗原小巻さんとの別れのシーン、お金の代わりに手ぬぐいをくれという、栗原からもらった手ぬぐいを抱きしめ、嗚咽する演技は女優人生のすべてが凝縮されていた。この映画から2年後に彼女は他界するのですよ」と、教わった。「お兄さんの兵役忌避があり、国賊のごとくに一家は下関を追われた。このぶんか館は田中絹代さんへの下関の贖罪です」と静かに慈しむように語られた。
 私は彼女が幼い頃暮らした丸山町界隈を拝見し、彼女が1年生の1学期まで通った下関市立王江小学校にお邪魔した。建物は当時のままと聞く。高台の校庭に立ち、眼前に広がる関門海峡を見つめた。彼女も、きっと大阪へ行く前に、寂しい思いで見つめたであろう。ふと気配を感じ、振り向くと、6歳くらいの頑是無い、ほっぺが下ぶくれのお嬢ちゃんが、同じように海峡を見つめていた。

(写真)/右)革の波打ちかげんにも人生が宿る絹代愛用のハンドバッグ。左)下関中央霊園にある墓所に参る筆者。

矢野寛治(やの・かんじ)

1948年、大分県中津市生まれ。成蹊大学経済学部卒業。大手広告会社勤務ののち、各紙誌にエッセー、コラム、書評などを執筆。「中洲次郎」も同一人物。著書に『なりきり映画考』(書肆侃侃房)など。

下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館

下関市田中町5-7  083-250-7666 9時30分〜17時(入館は16時30分まで) 月曜(祝日の場合は翌日)休館、 年末年始は12月28日〜1月4日休館 入館料200円(2階の田中絹代記念館のみ有料)

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リンボウ寸言 次号予告 アンケート&プレゼント

リンボウ寸言『今も、風のように』

林 望
 かの福山雅治君演じる所の龍馬は、ちとハンサムすぎる嫌いがあるが、実際龍馬という人は、会ってみたらどれほど魅力に満ちた男であったろうか。天もし彼に藉すにあと二十載ほどの寿を以てせば、とそんな想像もしたくなるけれど、案外、薩長政府の俗体なありようを見限って、あっぱれ世捨て人にでもなったやもしれぬ。本誌は、この不世出の異材の、美しい一面を、下関という物差しを宛てて読み出す。今もこの町のどこかに、龍馬の魂が風のように行き来している、ような気がする。



アンケート&プレゼント

 差しを心がけて、皆さまの役に立つ情報を、ワンテーマ方式で下関市から発信してまいります。第7号についてのご感想、及び今後特集してほしいテーマやとっておきのお知らせなどを、綴じ込みハガキでお寄せください。アンケートに回答いただいた方の中から抽選で○A「スターフライヤー」の北九州−東京羽田間ペア往復航空券目録を1名様に、○B モデルプレーンを5名様に、○C 4ページに登場する茂木健一郎さんの著書『龍馬脳のススメ』(主婦と生活社)を5名様に、○D 19ページに登場する坂本龍馬さん編集の『RYOMA』(主婦の友社)VOL.1〜4各1部のいずれかを4名様にプレゼントします。応募締切は平成23年3月31日消印有効。当選の発表は発送をもって代えさせていただきます。なお、応募はお一人様1号につき1通に限らせていただきます。複数応募は無効となりますので、ご注意ください。



次号予告(2011年3月1日発行予定)
映画の都

街角にさまざまな時代が刻まれた絶好のロケ地、下関。名画をたどる旅は、もうひとつの感動を呼び起こす。



下関の情報を航空機内で 本誌『083(ゼロハチサン)』を配布

 本紙『083』は北九州空港と東京羽田空港を結ぶスターフライヤー便の機内でも配布されています。北九州空港を発着する航空便は、東京便が3社で1日15往復と、わが国の国内定期路線では最も朝早く飛び立ち、最も夜遅く終着を迎える路線として関門・北九州地域の観光、ビジネスの足となっています。 また、下関市内から北九州空港までは、連絡バスや乗合いタクシーが運行されており、関東方面から下関市を訪れる観光客やビジネス客にとってその利便性が高まっています。 龍馬ゆかりの地として、また映画の街として、観光に力を入れる本市では、下関市のもつ自然、歴史、文化をはじめとするすばらしい地域資源をひとりでも多くの方に知っていただくため、(株)スターフライヤーの協力を得て、同社の北九州−東京羽田線の機内で本誌『083』を2010年1月から乗客の皆さんに配布しています。

083 ゼロ ハチ サン うみ やま たいよう VOL.7

2010年10月1日発行
編集人=福田章 ディレクター=大野金繁 アート・ディレクター=宮崎陽子
編集委員=林 望
発行=下関市 〒750-8521 山口県下関市南部町1番1号 TEL:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
制作統括=サンデン広告(株) 印刷=(株)アカマ印刷 協力=下関市の皆さん
アドバイザー
 下関フィルム・コミッション 常任委員長 冨永洋一
 九州芸術学館山口校 代表 伊東丈年

○バックナンバーのご希望は、下関市までお問い合わせを。
創刊号、第2号、第3号は在庫切れです。
TEL:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
○下関市ホームページからも電子ブックで『083』が読めます。
http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/083/

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