下関市立美術館

下関市立美術館

コレクションの一部をご紹介――日本画

※こちらに掲載されている作品が展示中かどうかについては美術館までお問い合わせください。
※コレクションは、年4〜5回程度開催している『所蔵品展』の中で、作品・テーマを変えて展示しています。 常設展示はございませんので展覧会スケジュール等でご確認ください。

 

狩野芳崖(かのう・ほうがい)
『枯木猿猴図』(こぼくえんこうず)

1887年制作・紙本墨画・軸


柏の木の上から手長猿がその長い手をいっぱいに指し伸ばしている。 その先には一匹の蜂が宙を舞っている。 猿が蜂を捕らえようとする図は、蜂が封、猿猴の猴が侯に字音が相通ずることから 「封侯図」という画題でも知られる。 柏の樹幹は豪快に描かれ、猿の伸ばした手、その先の蜂へと繋がって躍動感のある構図を造り出している。 墨画によるモノクロームの濃淡は空間の奥深さを感じさせる。 その表現は桃山時代に活躍した長谷川等伯や、 さらに遡って中国南宋末の禅僧画家牧谿の猿図を思わせる。 それらは江戸での修行時代から狩野派の故習にとらわれることなく古画や 東洋画の研究を行った成果によるものであろうが、 この後、さらに西洋画のさまざまな表現を研究し、融合することによって 日本画の革新を行うことになるのである。

狩野芳崖 かのう・ほうがい (1828年〜1888年)
長府藩御用絵師 狩野晴皐の子として長府に生まれる。 江戸に出て狩野勝川院に師事し、その俊才をうたわれた。 父とともに長府藩御用絵師となったが、維新後禄を離れ一時零落。 フェノロサとの出会いが契機となって、新日本画創造の先鋒となった。

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狩野芳崖(かのう・ほうがい)
『柳下鍾馗図』(りゅうかしょうきず)

1883年頃制作・紙本著色・軸


鍾馗は唐の玄宗皇帝の夢の中に現れた子鬼を退治して帝の病を治したとされる神鬼。 帝は当時の大画家・呉道子に姿を描かせて、天下に伝えたという。 芳崖は鍾馗図を多数描いている。 そこに自身の気概の理想を感じていたのだろう。 この作品では、明快な筆致と風という見えない大気を巧妙に使用するなど、 晩年の芳崖画の特色がすでに現れている。

狩野芳崖 かのう・ほうがい (1828年〜1888年)
長府藩御用絵師 狩野晴皐の子として長府に生まれる。 江戸に出て狩野勝川院に師事し、その俊才をうたわれた。 父とともに長府藩御用絵師となったが、維新後禄を離れ一時零落。 フェノロサとの出会いが契機となって、新日本画創造の先鋒となった。

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高島北海(たかしま・ほっかい)
『蜀道七盤関真景』(しょくどうしちばんかんしんけい)

1910年制作・紙本墨画淡彩・屏風


高島北海は、山岳への限りない憧憬をもって世界の山岳の特質を見極め、 実景を科学的に分析し絵画表現に活用するという手法で、独自の山水画風を樹立した。 それは近代日本人が科学的・客観的視覚で見ざるを得なくなった自然景を、 あらためて日本人の心で捉えようとした試みであった。 この作品は、中国旅行中のスケッチに基づき、 2つの景境を屏風左右の中心に据え、さまざまな岩や山川を加えて スケールの大きい山岳景として描き出す。 険しさを感じる鋭角的な岩の材質感を加味し、 まさに北海が主張した実景の理想化をめざす。 蜀道は古来峻険な行路として知られ、七盤関はその行路の七盤嶺にある関名。

高島北海 たかしま・ほっかい (1850年〜1931年)
山口県萩に生まれる。技術官吏を長く務めた後、50歳で画家として再出発する。 文展の審査員を第2回から第11回まで務める。 広く内外の山岳を写生し、理想的な山水画を追求、独自の山水画風を樹立する。 エミール・ガレなどアール・ヌーヴォー作家との交流は著名。

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小田海僊(おだ・かいせん)
『林和靖図』(りんなせいず)

1830年頃制作・紙本墨画淡彩・軸


林和靖は中国北宋時代の詩人。山に隠棲し、20年も町に出なかったといわれる。 梅を愛し、鶴を飼育してもっぱら詩作をしながら悠悠自適の生活を送った。 林和靖は特異な有徳の士として中国では早くから詩画の題材となり、 中国文化の影響を強く受けた日本でも、室町時代以来多くの画家によって描かれてきた。
海僊の図では、白梅の下、机に寄りかかった林和靖は詩想を練るかのように彼方に視線をやり、 そばで童子が鶴に餌を与える準備をし、鶴はそれを覗き込む。 伝えられる林和靖の故事がよく描出されている。 海僊は、その高潔な姿を表現するために色彩を極力抑え、 独自の面貌表現は一筆もゆるがせにすることなく精魂を込めて描き出す。 文人をめざした海僊の理想を、林和靖の内に現出させようとするのだろう。

小田海僊 おだ・かいせん (1785年〜1862年)
周防豊海の回船業の家に生まれ、下関の染物業小田屋の養子となった。 京都で松村呉春に師事していたが、のち中国元明の古画を研究して一家をなす。 晩年は京都に住み、文人との交流を行った。

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大庭学僊(おおば・がくせん)
『美人図』(びじんず)

明治中期制作・絹本著色・軸


庭先には萩の花が咲き、夜空には満月が浮かぶ。 室内では小袖姿の女性が琴の稽古を始めようと指先に爪をつけながら外を見やっている。 おそらく秋の虫たちが美しい音色を奏でているのだろう。 秋の風情漂う清雅な趣であるが、女性の髪飾りや長襦袢、爪入れに鮮やかな赤の色彩を効果的に使い、あでやかさも醸し出している。 女性の顔立ちは、学僊美人の特徴を備えながら、学僊には珍しい和洋の浮世絵美人である。
幕末、師・小田海僊のもとから独立し、萩で本格的な作画活動を始めた学僊は、 藩の御抱絵師としてではなく、町絵師として活躍する。 それゆえ庶民の好みや流行を敏感に感じ取り、さまざまな画題の作品を精力的に描いたのである。 さまざまな要素を摂取しながらも、学僊の作品に備わる清高な品格は彼の精神性の高さゆえだろう。

大庭学僊 おおば・がくせん (1820年〜1899年)
徳山の刀鍛冶三好家に生まれる。 幼名は百合吉。朝倉南陵に師事した後、京にのぼり、小田海僊に学ぶ。 一時その養子となった。 長らく萩で活動したが、維新後上京して第1回、第2回の内国絵画共進会では審査員となるなど、 東京画壇で活躍し、明治宮殿の杉戸絵制作にも参加した。

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