下関市立美術館

下関市立美術館

コレクションの一部をご紹介――版画

※こちらに掲載されている作品が展示中かどうかについては美術館までお問い合わせください。
※コレクションは、年4〜5回程度開催している『所蔵品展』の中で、作品・テーマを変えて展示しています。 常設展示はございませんので展覧会スケジュール等でご確認ください。

 

高島北海(たかしま・ほっかい)
『富士登山図・吉野駅渡頭之景』(ふじとざんず・よしのえきとうずのけい)

1878年制作・水彩・紙


北海独特の山水画と山岳観を生み出した土壌は、彼の前半生の技術官吏時代にあった。 そのころ北海は、伝統的な日本画法に心を残しながらも、職務上、 さらに積極的に山岳を写す必要性から西洋画法を修得する。 北海の西洋画法との接触を証するのが、こちらの12図からなる水彩画『富士登山図』である。 北海は内務省地理局測量課雇であった明治11年の7月、夏期休暇を利用して富士山に登山した。 この時の見聞をまとめたものが『富士登山記』であり、登山記の挿図が『富士登山図』であった。
この図は、北海が往路に用いた甲州街道の宿駅吉野にある桂川の渡し場周辺の風景である。 手法にやや粗略さはあるものの、樹木や水面そして上空にかかる雲を、色彩の広がりと濃淡のバランスによって的確に描出している。 一見、北海の作とは思われないほど洋画的であり、明治初年の本格的な水彩画法が試みられるようになった直後に、 これほど完成度のある水彩画を北海が残したということは、 北海研究の中で特筆すべき事実であると同時に、日本水彩画の歴史を顧みる時にも注目される作品でもある。

高島北海 たかしま・ほっかい (1850年〜1931年)
山口県萩に生まれる。技術官吏を長く務めた後、50歳で画家として再出発する。 文展の審査員を第2回から第11回まで務める。 広く内外の山岳を写生し、理想的な山水画を追求、独自の山水画風を樹立する。 エミール・ガレなどアール・ヌーヴォー作家との交流は著名。

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岸田劉生(きしだ・りゅうせい)
『壺』(つぼ)

1916年制作・油彩・板


作品は画面いっぱいに1つの壺を描いたもので、当時の常識的な表現からすればかなり異例な構図である。 画家と対象(壺)は、空間を介在させずに密着しようとしており、 そのあり様は風景表現で空気がないかのような奇妙な感覚を覚えることの種明かしといえるかもしれない。 「在るてふ事の不思議さよ」とは、劉生の芸術観を象徴するものとしてしばしば引かれる言葉だが、 対象を凝視する中で物の存在感に圧倒されるという体験は、 作品に一種の宗教感情のようなものへと深められる。 『壺』に続く一連の静物画は、存在をめぐる思考の端的な開陳の場であった。

岸田劉生 きしだ・りゅうせい (1891年〜1929年)
東京に生まれる。明治の先覚者・岸田吟香の四男。白馬会洋画研究所に学ぶ。 白樺派と親交をもち、後期印象派の影響を受ける。フュウザン会に参加後、草土社を結成。 実在の神秘を求めた独特の写実へ転じた。晩年は初期肉筆浮世絵や中国の宋元絵画に傾倒、日本画も制作。

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岸田劉生(きしだ・りゅうせい)
『村娘之図』(むらむすめのず)

1919年制作・水彩・木炭・紙


『村娘之図』は草土社時代の只中の作品である。 はじめゴッホやセザンヌなど後期印象派の画風の吸収からはじまった劉生は、 ほどなくデューラーやファン・アイクに倣ったといわれる克明な描写に移る。 そうした中でも特に知られているのが、娘・麗子を描いたシリーズだが、 『村娘之図』の少女・於松の肖像もそれと平行して数多く描かれている。 自らを写実的神秘派と語ったこともあるこの時期の作品は、 「泥絵」的とでもいうのがふさわしい独特の陰影法と色彩感で、暗く重苦しい印象すら与える作が多い。 その点、水彩のこの作品は軽やかで親しみやすい画面である。 今は消されているが、はじめこの村娘は手に花を持つかたちで描かれていた。 この変更によって作品から「思わせぶり」の類が排除され、劉生の自然な感性が見通しよく表されている。

岸田劉生 きしだ・りゅうせい (1891年〜1929年)
東京に生まれる。明治の先覚者・岸田吟香の四男。白馬会洋画研究所に学ぶ。 白樺派と親交をもち、後期印象派の影響を受ける。フュウザン会に参加後、草土社を結成。 実在の神秘を求めた独特の写実へ転じた。晩年は初期肉筆浮世絵や中国の宋元絵画に傾倒、日本画も制作。

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佐伯祐三(さえき・ゆうぞう)
『オニーの牧場』(オニーのぼくじょう)

1925年制作・油彩・キャンバス


1924年、佐伯祐三は初めてパリの地を踏み、ヴラマンクと運命的な出会いを果たす。 そこで「アカデミック!」と怒号をあびせられ、 "目からうろこが落ちた"ように佐伯の作風は大きく方向を変えていく。 『オニーの牧場』はヴラマンクのアトリエのあったオーヴェールへの途中にある牧場を描いたものである。 アカデミズムからの脱却を望みながらも、自己の様式を創り出せない辛い心境が、 暗澹たる空やうねった草原に表れている。 全体にヴラマンクの影響を強く受けているが、黒や白の色彩の使い方に、 後の作品の萌芽がみられる。

佐伯祐三 さえき・ゆうぞう (1898年〜1928年)
大阪に生まれる。東京美術学校卒業後、渡仏。 ヴラマンクやユトリロの影響を受け、勢いのあるタッチでパリの裏町などを描く。 1926年に帰国し、里見勝蔵らと「一九三〇年協会」を結成。二科展でも二科賞を受賞。 1927年に再度渡仏。街角のポスターの貼られた壁などを描き続け、翌年過労と結核のため病死。

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古賀春江(こが・はるえ)
『題のない画』(だいのないえ)

1929年制作・油彩・キャンバス


第12回二科展に出品され、古賀がシュールレアリスムへの転換を示した作品群のひとつ。 落下傘やのびあがるような姿の人物(河童か)など浮遊感を帯びた要素が目をひき、 水中または水辺を思わせる夢幻的な気分が全体を覆う。 この水の情景を夢と現(うつつ)、彼岸と比岸の境であると解釈すると、 前衛の器の中に、日本的死生観が浮かんでくる。

古賀春江 こが・はるえ (1895年〜1933年)
福岡県久留米市に生まれる。 太平洋画会、日本水彩画会などの研究所に学んだのち、 1922年に中川紀元らと前衛グループ「アクション」を結成。 1926年、一時、一九三O年協会に加入。同年二科会会友。 キュビスム、未来派等を摂取した独特の幻想的作風を生み、シュールレアリスム風の詩作も発表した。

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松本俊介(まつもと・しゅんすけ)
『街にて』(まちにて)

1940年制作・油彩・板


都会の風景は松本俊介にとって重要なモチーフである。 そこに登場する寡黙な表情の人物群は、決して個性を主張することはないが、 交錯する建物や人物の中に幾多のさまざまな生活があることを画家は忘れてはいない。 『街にて』の基調になっている青と白の色彩は、この時期の特徴である。 この作品は太平洋戦争開戦前年に描かれた。 前面に登場するのは都会的な風俗の人々だが、 その背後には緊張をはらむ時代の空気が克明に描き出されている。

松本竣介 まつもと・しゅんすけ (1912年〜1948年)
東京に生まれたのち盛岡に移る。 少年期に聴力を失うが、画家を志して1929年上京、太平洋画会研究所に学ぶ。 1935年から二科展に出品。1940年九室会展に出品、会員となる。 1943年美術団体が解散していく中で、麻生三郎らと新人画会を結成。 画家としての純粋な立場を守ろうとした。

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桂 ゆき(かつら・ゆき)
『狐と狸』(きつねとたぬき)

1973年制作・油彩・板


桂ゆきがはやくから試みた、ボロきれや木の葉など身近なものを直接キャンバスに貼り付けるという コラージュという手法は、触覚を重視する彼女自身の独特の感覚にもとづいており、 さらにガラクタや一見気味悪いものへの執着心とも関連している。 ユーモアと機知に溢れる作家の精神は、同時に人間社会の虚飾を冷めた視線でみつめることも忘れてはいない。
『狐と狸』はしわのよった紙を貼りつけ、狐と狸のばかしあいというユーモラスなテーマの中に、 人間社会への皮肉がダブルイメージとして表されている。

桂 ゆき かつら・ゆき (1913年〜1991年)
下関市出身の冶金工学者桂弁三の五女として東京で生まれる。 戦前から紙やコルクを用いた実験的な作品を制作。 二科展に出品するとともに、同会員による前衛グループ九室会結成に参加。 1966年第7回現代日本美術展で最優秀賞受賞。風刺的でユーモラスな作品が特徴。

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岡鹿之助(おか・しかのすけ)
『遊蝶花』(ゆうちょうか)

1951年制作・油彩・キャンバス


岡鹿之助は美術学校卒業後、当時パリ画界の流行作家になっていた藤田嗣治を訪ね、指導を受ける。 藤田のすすめでサロン・ドートンヌに出品し、入選するが、 会場に並べられた他のフランスの画家たちの絵に比べ、 自分の絵の画面が「指でふれれば、ボロボロとくずれ落ちそう」なほど弱々しいのを痛感し、 画材と技法の研究を始める。その結果、岡の絵の特色のひとつである点描による表現が生まれた。 岡鹿之助の絵は、三色すみれ、発電所、古城、雪といったモチーフが繰り返し描かれる。 『遊蝶花』はその代表的な作品であり、 前景の三色すみれと背景の雪景色の組み合わせによって、 ひんやりと冴えわたった幻想的な空間が作られている。 「遊蝶花」(三色すみれ)という作品名は上田敏訳のグウルモンの詩『シモオヌ』からとられた。

岡鹿之助 おか・しかのすけ (1898年〜1978年)
東京麻布に生まれる。岡田三郎助に師事。 東京美術学校卒業後、1924年渡仏。 藤田嗣治の指導を受け、サロン・ドートンヌなどに出品。 1939年に帰国し、以後春陽会に所属。1952年「遊蝶花」などで芸能選奨文部大臣賞受賞。 1964年日本芸術院賞、1972年文化勲章を授与された。

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香月泰男(かづき・やすお)
『二人座像』(ふたりざぞう)

1936年制作・油彩・キャンバス


東京美術学校の卒業制作作品である。 浜辺に海水浴の少年が二人、肩を組んで座る。 従兄弟たちを写した写真のポーズを元にしているが、組んだ手足は大きく長くデフォルメされ、 深い陰りを帯びた青と緑の色彩が背景を覆う。そこには《青の時代》のピカソ作品の影響がうかがえる。 昭和6年、念願の東京美術学校に入学した香月泰男は、 「日本人の体質」にあった油絵表現の模索の一方で、卒業前にはピカソにも強い関心を抱いていた。 美術学校では藤島武二の強引な指導を逃れ、いつも勝手に描いていたために成績はふるわなかったが、 この『二人座像』の評価は高く、「補欠がホームランを打った」ようだったという。
1956年のはじめての渡欧で、ピカソを訪問しながら帰国後はピカソとまるで違った「黒」の世界を展開することになる。 その頃には「シベリア・シリーズ」と「日本的油絵」という自分の課題がはっきりと見えていたのである。

香月泰男 かづき・やすお (1911年〜1974年)
山口県三隅町生まれ。東京美術学校卒業。 美術教師として最初北海道に赴任。 1938年、下関高等女学校に赴任。応召、シベリア抑留を経て帰国後、郷里・三隅町に居住。 この間国画会を中心に活動する。1950年代以降本格的に展開した「シベリア・シリーズ」で注目される一方、 故郷の風景も多く描いた。

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香月泰男(かづき・やすお)
『十薬』(どくだみ)

1956年制作・水彩・紙


一筆書きのような簡潔な線と、限られた色彩で、味わいのある画面が生み出されている。 一見無造作にも見える背景と、余白のゆらめきも心憎い。 この時期の香月は、「台所画家」と異名をとるほど、 食卓上などの身近な興味を引くものを次々に描いた。 何気ないものをとらえる目と、それをたくみに表す「手の人」としての画家の本質がうかがえる。

香月泰男 かづき・やすお (1911年〜1974年)
山口県三隅町生まれ。東京美術学校卒業。 美術教師として最初北海道に赴任。 1938年、下関高等女学校に赴任。応召、シベリア抑留を経て帰国後、郷里・三隅町に居住。 この間国画会を中心に活動する。1950年代以降本格的に展開した「シベリア・シリーズ」で注目される一方、 故郷の風景も多く描いた。

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