厚島(あづしま)は豊浦町の響灘沖合2kmに浮かぶ無人島で、周囲わずか4kmの男島、すぐそばの女島、竜宮島、石島の4島からなる島々の総称です。



 アルフレッド・コルトー(1877-1962)は、ジュネーブ近郊に生まれ、ショパンの最後の弟子の一人エミール・デコンブに学び、ヴァーグナーに心酔しました。ピアノの詩人と謳われ、ショパンを弾けばルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストでした。日本においても、昭和初期レコード鑑賞や名曲喫茶が流行り、ショパンのピアノ曲が浸透し始めたころ、常にSPレコードでベストセラーだったのが、コルトーの弾くショパンでした。また、彼はパリに「エコール・ノルマル・ド・ミュージック」という音楽院を設立し、現在も多くの優れた音楽家を世界中に輩出しています。



 コルトーは、晩年の1952(昭和27)年にただ1度、念願の来日を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。宇部公演を控えた10月7日、翌8日、そして下関公演の9日の3日間、川棚村(現下関市豊浦町川棚)の川棚観光ホテルに宿泊しました。
 来日して2週間が経っていたコルトーは、ここに来て「日本は素晴らしい。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしています。
 とりわけ、宿泊したホテルの窓から見えた厚島と響灘の美しい風景にとても魅せられたコルトーは、当時の川棚村長に「あの無人島に住みたい。ぜひ売ってくれないか」と交渉しました。居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、それが本気であるとわかると、考えた末に「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と答えたといいます。コルトーは感激して「トレビアン(感激)」を連発、「必ずまた戻る」と村長と何度も握手をし、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。また、集まった人々により、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大変感激しています。
 しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後病に倒れ、思いを果たせぬまま、10年後にこの世を去りました。その後、川棚村は合併、川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。



 コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。
 近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、2003(平成15)年10月、ついに孤留島と厚島とが再び結びつきました。
 フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦の関係は、今また数十年ぶりに結ばれることとなりました。もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。



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