毛利家四本目の矢、ここにあり!!
長府毛利家

大化の改新の後、長門国の国府が置かれたことから、「長府」と呼ばれるようになったと「日本書紀」が伝える町。江戸時代には、長府毛利藩5万石の城下町として栄え、幕末には維新回天の舞台となりました。ここでは、長府毛利藩について、詳しく見て行きます。
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毛利秀元とは 資料展示 パンフレット



長府毛利藩を支えた人物  
長府毛利藩の初代藩主、毛利秀元。豊臣秀吉からも寵愛され、文武に秀でた毛利秀元について、分かりやすく解説していきます。平成23年4月から、月に2回程度の割合で掲載していきますのでお楽しみに。
 
−目次−
 01.毛利輝元の養子に!
 03.毛利家の後継者問題1−小早川隆景の策略
 05.毛利家の後継者問題2−一応の解決
 07.秀元の初陣!
 08.思慮深き元清と秀元父子
 10.慶長の役−再度、総大将として
 12.秀元の別家A
 13.関ヶ原の合戦へ
 15.安濃津城攻め
 17.決戦、関ヶ原
 19.秀元の決断−広家と広俊の策略
 21.秀元と黒田長政
 22.徹底抗戦を説く!!
 24.家康に翻弄された毛利家
 26.秀元の長府入部

 02.豊臣秀吉の寵愛を受ける。
 04.宮松丸の元服
 06.秀元、関門海峡で遭難した秀吉を救助!
 コラム01−長府毛利家の祖、毛利元清
 09.秀元の良き理解者、小早川隆景の死
 11.秀元の別家@
 コラム02−芸達者の秀元
 14.秀元の気概
 16.関ヶ原の合戦前夜
 18.勇敢なる退却
 20.整然なる行軍
 コラム03−秀元の腕力
 23.輝元の大坂城退去−秀元の涙
 25.秀元の所領決定
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01.毛利輝元の養子に!
 江戸時代、現下関市域の大半を領有した長府藩の初代藩主毛利秀元。文武に秀でた秀元は、豊臣秀吉から寵愛され、また関ヶ原の合戦後、窮地に陥った毛利家を救ったともいうべき人物です。
 天正7年(1579)11月7日、宮松丸(後の秀元)は、中国八ヶ国を領有した戦国大名毛利元就の四男元清の二男として生まれました。父親の元清は当時、織田信長との攻防で最前線となった備中猿懸城主(岡山県矢掛町)を務め、織田軍の攻撃を幾度も食い止めた勇将として名を馳せていました。
 戦陣に生きた元清から、「毛利」の名に恥じないよう厳しく育てられたであろう宮松丸に転機が訪れたのは、天正12年(1584)のこと。6歳となった宮松丸は、毛利家当主の輝元(元就の孫)に養子として迎えられ、家中から一目置かれる存在となったのです。
 その際、「毛利両川」として輝元を支えた吉川元春(元就の二男)と小早川隆景(元就の三男)から強い推薦をうけたのです。元春は「今、毛利家に男子は多くいるが、宮松丸に及ぶ者なし」と言い、隆景は「その眼差し・秘めたるものが元就によく似ており、毛利家を継ぐのは宮松丸しかいない」と言ったといいます。
 2人の叔父は、亡き元就の面影を宮松丸に見たのではないでしょうか。
毛利元就画像仁如集尭賛

写真:「毛利元就画像」
長府毛利家蔵
下関市立長府博物館寄託
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02.豊臣秀吉の寵愛を受ける。
 天正14年(1586)、輝元は、全国統一を間近にした豊臣秀吉との交戦を避けるため、養子の宮松丸(後の秀元)を秀吉の人質として、大坂に向かわせます。
 大坂城で宮松丸に初対面した秀吉は、人質となった宮松丸の苦労をねぎらい、褒美として刀を贈りました。その際、宮松丸は身につけていた刀を下座に置き、秀吉から戴いた刀を腰に差し直しました。この所作を見た秀吉は、幼少ながら、武将としての礼儀をわきまえた立ち振る舞いに感心したといいます。
 また、大坂滞在中、宮松丸は、京都で行われる後陽成天皇の即位大礼式を見る機会を秀吉から与えられました。宮中(御所)では珍しい子供の姿に、後陽成天皇の目が止まり、宮松丸の出自を聞いた天皇は、「宮松丸の祖父 元就公は、我が祖父 正親町天皇の即位大礼式の挙行に多大な尽力をしてくれた。今、私の即位に際して、元就の孫が立ち会うのも何かの縁、これは吉兆である。」と述べ、側に引き寄せたといいます。
 宮松丸を天皇に拝謁させたことで、秀吉の評判が、ますます世間に広がるところとなり、以後、秀吉は、宮松丸を深く寵愛するようになっていきます。
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03.毛利家の後継者問題1−小早川隆景の策略
 少し話を前に戻して、宮松丸が人質として大坂に行く前の話です。
 宮松丸は、吉川元春・小早川隆景(毛利両川)の推薦により、輝元の養子となりましたが、毛利家中から正式に後継者として認められていませんでした。そこで、輝元の奥方である清光院は、可愛がっていた実兄 宍戸元秀の5男吉内(のち元真)を輝元の養子に迎え、毛利家を継がせようと密かに考えます。
 この企てを知った隆景は、毛利家当主の身代わりとなる人質が、輝元の後継者として家中・他の大名等から認められることを承知で、敢えて吉内を毛利家の人質として、秀吉に差し出すよう輝元に進言しました。
 話を聞いた清光院は驚き、可愛い吉内が人質とならないよう、180間(約327m)ある厳島神社の回廊に1間ごと置かれた金燈籠に火を灯し、願掛けをします。
 すると、隆景はさらなる手を打ちます。清光院の侍女に「私の身代わりに大坂で人質となっている秀包から手紙が送られてきたが、京都・大坂は悪人が多く、悪人と同居しているようなものだと書かれておった。清光院様が吉内君を側に留めておきたいのはごもっともであるが、毛利家のためならば、致し方あるまい…」と告げます。
 侍女から報告を受けた清光院は、あまりの恐怖に顔面蒼白。
 隆景は、自分の策に効果が出てきたことを確信し、「先日、吉内を人質として差し出すのが良いかと申し上げましたが、よくよく考えると、すでに輝元様の養子となっている宮松丸君のほうが、秀吉は毛利本家の人質であると認め、大いに喜ぶのではないでしょうか」と再度、輝元に進言します。輝元も「隆景が毛利家のことを熟慮した結果であるならば、そのように致そう」と承諾しました。
 隆景の巧みな策略によって、清光院の画策が退けられ、輝元と宮松丸の間がより密接となります。その結果、宮松丸が毛利家の後継者として秀吉・毛利家中からも認められるようになっていきます。
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04.宮松丸の元服
 宮松丸は、毛利家当主になるべく着実に成長していましたが、またも毛利家の後継者問題に巻き込まれてしまいます。今度は、宮松丸を寵愛していた秀吉が、自分の子のように可愛がっていた甥の木下秀俊(のち小早川秀秋)を輝元の養子にしようと密かに画策します。
 このことを聞いた小早川隆景は、先手を打ち、輝元を通じて、秀吉に宮松丸の元服について許可を求めました。隆景は、宮松丸の成人を内外に示し、毛利家の後継者としての立場を揺るぎないものにしようとしたのです。
すると、秀吉は「宮松丸は実に識見のある子であり、元服の時期をもっと早くに言うべきであったのではないか。今ちょうど大坂に滞在しているのであれば、宮中で元服の儀を行うことにいたそう」と快諾しました。
 天正18年(1590)10月吉日、宮松丸は殿上において元服し、右京大夫に任ぜられます。その際、秀吉から名前の1字をもらい、「秀元」と名を改めるとともに、天皇家の御紋である「菊」「桐」紋章の使用を許され、御馬とともに「寮の馬具」を拝領しました。
 隆景の英断により、秀吉の思惑を未然に防ぐことができましたが、毛利家の後継者問題は、後に尾を引くこととなります。
寮の馬具

寮の馬具
写真:「寮の馬具」
長府毛利家蔵
下関市立長府博物館寄託
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05.毛利家の後継者問題2−一応の解決
 秀元の元服により、「毛利家に秀元あり!」を毛利家内外に知らしめることができましたが、輝元の養子に木下秀俊を推した秀吉の面目が潰れたままになっていました。
 そこで、隆景は、自らが隠居し、秀俊を養子に迎えたいことを、秀吉の侍医 施薬院全宗を通じて、秀吉に依頼します。この話を聞いた秀吉は、快諾。この時、筑前・筑後・肥前1郡の大封を有していた小早川家を手に入れることができ、かつ小早川家の毛利家分断を考えたのかもしれません。
 ここに、秀俊問題が解決し、秀吉の顔も立つと、文禄元年(1592)輝元は文禄の役で朝鮮半島に渡る前、秀元を嫡子と定め、系図類や伝家の重要書類を譲って、秀元に後事を託します。
 また、同年、秀吉が肥前名護屋に赴く途中、広島に立ち寄り、秀元とわざわざ面会しています。その際、秀吉は「秀元は、輝元の単なる養子なのか、それとも跡継か?」と、随従した施薬院全宗と秀元の側に控えていた安国寺恵瓊に尋ねました。すると、全宗は「跡継にございます」と答えましたが、恵瓊は「秀吉様がお決めになられることであると、輝元様・隆景様が申しておりました」と秀吉に遠慮をします。
 この恵瓊の言葉に気をよくしたのか、秀吉は「輝元が毛利家に相応しいと思うなら、跡継にしてよかろう」と諒解しました。さらに、「輝元に、もし実子ができたならば、その時は実子を跡継とし、秀元を別家させたらどうか」という寛大な計らいを見せます。
 こうして、秀元が秀吉から毛利家跡継として認められ、毛利家の後継者問題に一応の解決がみられたのです。
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06.秀元、関門海峡で遭難した秀吉を救助!
 広島で秀元と対面した後、肥前名護屋にいた秀吉は、文禄元年(1592)7月、母の大政所が病気になったことを聞き、急ぎ大坂に帰ります。
 その帰途、秀元は小倉に到着した秀吉を訪れ、面会します。挨拶に来てくれたことに対し、秀吉から感謝の言葉をかけられた秀元は、伴食の栄を賜りました。
 翌日、秀吉とともに小倉を発った秀元は、不慮の事態に備えるため、秀吉の船に続き、航海をしていました。すると、関門海峡にさしかかった時、事件が起こります。「死の瀬」と呼ばれる岩礁に秀吉の船が座礁してしまったのです。後続の秀元は、直ぐさま座礁した船のそばに自分の船を寄せ、秀吉を救助しようとしますが、潮の流れが急なため、なかなか船を近づけることができません。
 そこで、秀元は小舟を出して、岩間に立つ秀吉を救出します。その際、秀元は自らが佩びる刀を外し、かつ家臣に刀を外させると、その刀を小舟に投げ入れ、秀吉に異心がないことを表明した後、小舟から本船に秀吉を引き上げました。


写真:「与次兵衛ヶ瀬の碑」
下関市阿弥陀寺町
(姉妹都市ひろば)
 この行動に感激した秀吉は、秀元の重臣に「今の今まで、識見ある秀元殿には、密かに輝元殿の所領半分を与えようと思っていた。しかし、本日の誠意ある対応に考えを改め、正統な世嗣である秀元殿には、必ず毛利家の全所領を譲与することを約束する」と言い、これを聞いた重臣が涙したといいます。
 この翌月、上洛した秀元は秀吉に謁見し、関門海峡で秀吉を救助した功績により、「正四位上・侍従」を叙任され、羽柴姓を賜りました。今だ13歳の秀元にとって、破格の待遇であったことは言うまでもありません。
 ちなみに、関門海峡で座礁した船の舵をとっていたのが「明石与次兵衛」という人物であったといいます。後に、その名前をとって「死の瀬」あたりを「与次兵衛ヶ瀬」と呼ぶようになり、その岩場には写真にあるような碑が建てられました。
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07.秀元の初陣!
 朝鮮半島に渡海した輝元は、慣れない異国の風土や諸将統率への心労からか病気になってしまいます。
 そこで、文禄2年(1593)3月、秀吉は輝元に代わって秀元を朝鮮半島に渡海させます。その際、秀吉は、初陣の秀元を「総大将」に大抜擢しました。
 秀吉は徳川家康・前田利家など居並ぶ重臣等に対し、「お主たちは、秀元殿が総大将の重責に耐えられるか心配をしてるやもしれぬ。しかし、わしは秀元殿の物事を正しく見極める能力が他の者より優れていることを知っており、この大事を任せられるのは秀元殿しかおらぬ。」と宣言します。さらに、信頼する隆景が補佐するとなれば、安心であると太鼓判を押しました。
 秀吉の命を受け、意気揚々と朝鮮半島に渡海した秀元は早速、晋州城の総攻撃に参戦し、秀吉の期待に背かない活躍をみせました。その後、釜山に堅城を築いた秀元は、前線の諸将に適宜、指示を与え、全軍を見事に統率したといいます。
 戦線が一応の終息に向かいつつあった文禄3年(1594)6月、秀吉の命により、総大将を父親の元清に譲った秀元は、帰国。その3ヶ月後、上洛した秀元は、文禄の役での功績から、秀吉の養女(秀吉の弟秀長の娘)を正室に迎えます。
 なお、秀吉養女の嫁入れ行列には、多くの諸侯・大名が警護に就き、輿には金・銀・玉などの装飾がなされ、多くの見物人が「今まで、このように美麗な化粧行列は見たことがない」と驚嘆したといいます。
 総大将としての重責を負いながらの初陣を見事に飾り、かつ豊臣家の縁戚となった秀元は、一段と周囲の大名より一目置かれる存在となりました。


写真:「毛利秀元所用蔦唐草文蒔絵鞭」下関市立長府博物館所蔵
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コラム01−長府毛利家の祖、毛利元清
 元就の子どもで『3本の矢』に例えられる隆元・元春・隆景3兄弟のことは、有名ですが、同じ元就の子であり、秀元の父である元清についてはあまり語られていません。そこで、少し元清について、ご紹介いたします。
 元清は天文20年(1551)、元就4男として生まれ、幼名を四郎といいました。その後、永禄9年(1566)に元服、元清を名乗ることとなります。
 元清の母親は、元就の継室「乃美大方」であり、他に7男元政(右田毛利家の祖)・9男秀包(吉敷毛利家の祖)を産んでいます。元就は庶子のことを「虫けらのやうなる子」と称していますが、その言葉と裏腹に庶子の成長に期待していたようで、元清に宛てた手紙には、慈愛に満ちた文章を多く遺しており、元就が本当に「虫けら」と思っていなかったことがわかります。
 なお、元清・元政・秀包の兄弟は、元春・隆景の「毛利両川」とともに元就・輝元を支え、毛利家の体制維持・強化の一翼を担いました。また、3兄弟の連携は、後の子孫にも引き継がれ、関ヶ原合戦後の萩毛利家(毛利本家)の政治に大きな影響を与えています。
 青年期の元清は、元就の期待に応えるかのように、尼子氏・大友氏・宇喜多氏など敵対勢力との抗争を繰り広げる毛利家において、各地を転戦して活躍します。また、大内氏の再燃がくすぶる周防・長門(山口県)の押さえとなる安芸桜尾城主(広島県廿日市町)を任されました。
 天正3年(1575)には、穂田元資の養子として猿懸城主(岡山県矢掛町)となり、備中(岡山県西部)攻略の重責を任されるようになります。その後、次第に中国地方への影響力を増してきた織田氏との最前線において、何度も織田軍を退けるなど、勇猛な武将として名を馳せました。
 織田軍との激戦下にあって、天正7年(1579)、死を覚悟した元清は毛利家当主となっていた輝元に対し、母の乃美大方・弟の元政・秀包の将来、さらには元就の継室「中の丸」・元就の姪「甲山」の後事までを託した長文の手紙を遺しています。元清の細やかな情愛が垣間見えるとともに、戦陣では剛毅、家族には情を以て生きた戦国武将であったことがうかがえます。
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08.思慮深き元清と秀元父子
 文禄4年(1595)5月、毛利家を揺るがす問題が起こります。
 豊臣秀吉と秀次の間に不和が表面化する少し前のこと、秀次重臣の白江備後守が密かに、大坂滞在中の輝元を訪れます。白江は「関白の秀次様と昵懇の間柄になろうと、多くの大名から盟約書が届いています。ここは、ぜひ輝元様にも盟約書をいただきたいのですが…」と輝元に尋ねました。この言葉を信じた輝元は、すぐに盟約書の提出を快諾。
 さらに、白江から「このことは、くれぐれも内密にお願いしたい」と頼まれると、正直な輝元は、同じく大坂に滞在していた元清を、わざわざ泉州(大阪府)堺港に係留された南蛮船の見物に行かせ、事情が漏れないよう配慮したうえで、盟約書を提出しました。
 加えて、白江は、後継者の地位にある秀元からも盟約書をもらおうとします。依頼された秀元は、「養父の輝元様が盟約書を出したのであれば、子は従うのみ」と答えましたが、この盟約書によって毛利家の存続が危ぶまれることを瞬時に判断すると、輝元が書いた文章を参考に『太閤秀吉様と同様、秀次様に奉公いたします』という1文を書き加えて、提出しました。
 この秀元の即断を聞いた輝元は、「自分もそのようにすれば良かった…」と悔しがりましたが、後の祭りです。
 南蛮船見物から帰った元清は、この話を聞くと大いに驚き、秀元を問いただしますが、盟約書の件について口外できない秀元は、「何も知らない」の一点張り。この秀元の対応から察した元清は、直接、輝元に「このことは、毛利家の存亡に関わる出来事ですぞ。なぜ、提出される前に皆へ相談がなかったのですか。こうなっては遅いので、提出された盟約書の案文を秀吉様にお見せして、この軽挙を謝るしかござるまい」と問い詰めました。
 すると、この大事を理解していない輝元は、「今のままなら事を荒立てずともよかろう」と述べ、何とか秀吉からの叱責を免れようとします。業を煮やした元清は「盟約書のことは、毛利家から外へ漏れることはないと思いますが、他家から秀吉様のお耳に届いたら、家はお取り潰しですぞ」と強く意見しました。
 これを聞いても輝元が逡巡する有り様であったので、元清は安国寺恵瓊・林志摩守に輝元の盟約書の案文を渡し、秀吉の元に向かわせます。秀吉はわざわざ案文を提出したことに満足し、かつ最後に1文を書き加えた婿(秀元)を褒め称え、2人を帰らせました。咎めもなく無事に解決したことを聞いた輝元・元清は、深く安堵したといいます。
 この2ヶ月後、秀吉から関白を追われた秀次が自刃し、聚楽第が取り壊されることとなると、改めて元清の明識に一同感服したといいます。
 ちなみに、この頃、秀元は文禄の役での功績から「正三位」「参議」に叙任されます。養父輝元が「従三位」、輝元の実子秀就も「従四位」であり、位階だけをみれば本家を上回る結果となりました。
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09.秀元の良き理解者、小早川隆景の死
 慶長2年(1597)、慶長の役が起こると、秀元は再び「総大将」として朝鮮半島に渡海することとなります。4月下旬、伏見を出発した秀元は、備後三原に隠居していた小早川隆景の元に、出陣のあいさつに訪れました。隆景からは「総大将を再び命じられるのは、武門の誉れですぞ。特に秀吉様の命の良否を見極めることが肝要でありますぞ」と声をかけられます。
 また、朝鮮半島へ旅立つ秀元を見送る道中、隆景は、過去の戦(いくさ)や、その成功と失敗などを秀元に語りました。秀元に期待をしていた隆景は、自らの経験・知識等をできるだけ秀元に伝えておきたかったのでしょう。
 さて、秀元が三原に滞在していた間、何度も話を交えた隆景は、秀元の言葉の端々に「何か話せぬ内意があるのでは?」と感じます。そこで、隆景が重臣を通じて、秀元の侍臣伊秩安房守(元處)に真意を問うと、安房守は「秀元様は、輝元様に松寿丸様(のちの秀就)がお生まれになられたことで、後継者の座を譲られようと考えていらっしゃるようです」と答えました。
 この頃、秀元は輝元に対して「松寿丸様に対して、今後異心を抱くことなく、奉公いたします」と誓書を提出しており、輝元の後継者を秀就と考えていたことは間違いないようです。
 これを聞いた隆景は、自分の思いが秀元の真意と一致したことに喜び、輝元に後継者の件について話をします。ところが、輝元は「わが子はまだ3歳じゃ。未だ其の器量が家を継ぐべきものなのかわからぬ。であるからして、まだ世継は替えぬ」と聞き入れません。
 そこで、隆景は「輝元様の言葉には大変慈悲深いものがありますが、良い機会というのはなかなかやって来ませぬ。速やかにお決めになることが肝要かと思います」と釘を指しました。
 最後の一言が効いたのか、輝元は秀元と松寿丸の両人を跡取りとし、松寿丸が成人した際に、家を継ぐべきかどうかを判断することとします。しかし、この輝元の優柔不断な態度により、秀元の別家、毛利家中の内部分裂と大きな問題に発展しますが、その話は、また別項にて…
 ここにおいて、毛利家の方針が決定されましたが、この直後、秀元の良き理解者であった隆景は亡くなります。既に「毛利両川」の一人、吉川元春は没していたため、ここに、両川体制が終焉を迎えることとなりました。
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10.慶長の役−再度、総大将として
 慶長2年(1597)6月下旬〜7月上旬、朝鮮半島に上陸した秀元は、加藤清正を先鋒とする右軍を率いる総大将として、各地を転戦します。その後、半島南部を確実に押さえるという秀吉の計画により、秀元は諸将を各城に配置し、城郭を築造して堅固に守るよう命じました。
 ところが、12月、加藤清正守将の蔚山城が明・朝鮮王朝軍に包囲され、攻撃に晒されているという急報が寄せられると、秀元は諸将に救援を命じるとともに、自ら兵を率い、蔚山城の救援に向かいます。ぞくぞくと蔚山城の近く西生浦に諸将が集まってくると、救援方針について話し合いが行われました。
 その際、山口玄蕃頭(宗永)から「小早川秀秋殿は釜山城、宇喜多秀家殿は順天城の要衝にあり、半島南部の鎮静に意を注いでおられます。ここは、総大将である秀元殿も諸将と共に軽々しく戦地に赴くことはありませぬ。西生浦に残られ、敵軍を破るための策略を巡らし、前戦に指示を出していただくことが総大将の責であると考えます」と進言されます。すると、秀元は「今、敵軍が100万とも言われ、我軍が僅か3万超、諸将が戦地から無事に帰れるという保証はござらぬ。そんな状況の中、そなたが言うように、諸将を死地に赴かせ、自分がこの地に留まるのであれば、秀元は命を惜しんだ者と後の世まで汚名を残すことになろう。総大将の責任についてはそなたと議論すべきことではない!!」と怒り、山口玄蕃頭の進言を退けました。戦地で諸将とともに戦い、かつ生きて諸将を日本に帰すことを総大将の責と考えていた秀元にとっては、受け容れ難いものだったのでしょう。
 宣言どおり、秀元が日本軍を自ら率いて蔚山城に向かうと、これを知った明・朝鮮王朝軍は、蔚山城に総攻撃を仕掛けますが、逆に秀元率いる来援軍と城内軍の激しい攻撃に退却を余儀なくされました。 激戦を繰り広げ、蔚山城を守り抜いた後、秀元は退却した明・朝鮮軍を殲滅するよう考えましたが、蜂須賀家政を初め諸将に反対され、進軍を諦めました。−のちに、このことが尾を引き、帰国した諸将はしばらくの間、秀吉の謁見を許されず、家政は剃髪したといいます−
 そこで、領土確保を大事とした秀元は、この度の籠城戦で打撃を受けた加藤清正を西生浦で休息させ、自ら蔚山城を守ることとしました。このことを聞いた秀吉・輝元は、蔚山城の戦いの勝利と諸将を思い遣る秀元の心意気に感激するとともに、寒い時期だから体を壊さぬようにと気遣い、少しでも早く帰国するよう、秀元に手紙をだしています。同年4月、ようやく蔚山城の修築が完成したので、秀吉は島津・福島・長宗我部など10余将を朝鮮半島に留め、秀元の帰国を命じました。
 帰国した秀元は、同年6月、伏見で秀吉に帰国を報告すると、その際、「茶壺 銘 玉蟲」と呉服・銀子など多くの褒美を秀吉から賜ります。民衆は、その素晴らしい褒美に嘆息するとともに、秀元の優れた才知を知ったといいます。
唐物茶壺 銘 玉蟲
写真:「唐物茶壺 銘 玉蟲」
長府毛利家蔵
下関市立長府博物館寄託
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11.秀元の別家@
 慶長3年(1598)6月、後継者の地位を譲る決心をしていた秀元に対して、輝元は「松寿丸が万一成人して、家臣からの信頼を得ることができたならば、(松寿丸に後継を任せ)、秀元にはそれなりの地位を約束する」と回答しました。慶長の役が始まる直前のことです。ここで、ようやく輝元は松寿丸を後継者にすることを決めたようですが、松寿丸が成人するまでの間、秀元を中継養子として認識していたと考えられます。
 その翌月、秀吉が輝元に対して、文禄元年(1592)の約束(「輝元にもし、実子ができたならば、その時は実子を跡継とし、秀元を別家させたらどうか」:bO5を参照)を元に、秀元の別家を勧めます。「山陰道の守将がいないようじゃのう。そこでじゃ、出雲・石見・隠岐・伯耆半国を秀元に分け与えたらどうじゃ。その際には亀井茲矩・宮部継潤・南条元忠を秀元の家臣とさせよう」と。これに輝元は苦悩します。すでに、山陰の大部分には吉川広家(元春3男)が所領を持っており、今さら所領替えをすれば、家中が混乱することは目に見えていました。
 そこで、輝元の心中を察した秀元が、「今、秀吉様の命を受けるべきではございません。ようやく知行配置を完了したばかりで、また所領替をすれば家中に紛騒が起こってしまいます。私は、身の丈に合う家臣を引き連れ、しばらくの間、出雲国・伯耆国の間に駐留しております」と言うと、この秀元の配慮に、輝元は涙を流して感謝したといいます。
 この2ヶ月後の慶長3年(1598)8月18日、秀吉が亡くなったため、秀元の別家問題は沙汰やみとなり、その後も、慶長の役で朝鮮半島に渡った日本軍の引き上げなどが重なり、見送られていました。
 しかし、ようやく日本軍の撤退が完了した慶長3年(1598)12月頃、諸将が集まる中、藤堂高虎が輝元に対して、「秀吉様がお命じになった国割を今だに行わないのは、秀吉様に背いたのも同然ではないか」と詰め寄ります。そこに居合わせた秀元は輝元に代わり、「高虎殿、皆が集まるところで異な事を申される。輝元様は秀吉様の遺命を遵守され、私に国を割こうとされておられます。高虎殿も、まずは、所領が移動する人々の心を静め、理解を得てから国割をするのが定石であることくらい、おわかりでしょう。これは、輝元様だけでなく、ここにいる諸将方もそうされるのではござらぬか」と忠告します。これを聞いた諸将は、秀元の高徳に感じ入ったといいます。
 この話から、秀元の別家問題は諸将の間で注目すべきものであったことがうかがえます。さらに、この問題が関ヶ原の合戦前に起きた毛利家の分裂に深く関わっていくのでした…。
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12.秀元の別家A
  秀元の一言により、別家問題は一時沙汰止みとなりましたが、秀吉没後に水面下で行われていた、三成をはじめとする五奉行と徳川家康の勢力争いを契機に再燃します。
 慶長4年(1599)1月、石田三成・増田長盛が「太閤様被仰出筋目」と称して、秀元へ出雲・隠岐・伯耆3郡・安芸廿日市周辺などを国割するよう輝元・秀元に命じました。この命を受けた輝元は、家中に国割の実施を宣言し、実行しようとしますが、やはり家中から不満が噴出します。
 その急先鋒となったのが、秀元と同じく「毛利両川」の後継者として期待されていた吉川広家でした。隠岐・出雲3郡・伯耆半国を既に治めていた広家は、長年かけて所領を整備していたこともあり不満を露にします。さらに、国割実施を命じた三成と広家は、慶長の役において軋轢が生じていたことも、広家の不満に影響を与えていたものと推察されます。
慶長四年御国割書
写真:「慶長四年御国割書
長府毛利家蔵
下関市立長府博物館寄託
 
 また、隠岐国が輝元から与えられた初めての所領で、思い入れがあるとともに、18歳下の秀元のために所領を渡したくないという感情があったのではないでしょうか。 そのほか、配置替えの対象となる家臣の動揺も重なり、またも秀元への国割は延期となりました。
 すると、今度は家康の影が毛利家に忍び寄ります。慶長4年(1599)閏3月に、輝元と家康が兄弟の契りを交わし、同年4月には松寿丸の『袴着の儀』を行うことに家康が承諾するなど、家康と毛利家が急接近しており、家康は秀元の国割問題に乗じて、毛利家に影響力を示そうとします。
 家康は福原広俊に対して、「国割の命が出ているが、領国が多いため、困難であろう。しかし、このまま延期している間に、秀元殿が遺憾を抱くようになれば、毛利家にとっては大問題となるのは間違いあるまい。思うに、秀元殿へ20万石の地を与えてはどうかのう」と言い含めます。早速、広俊が輝元に家康の申し出を話すと、義兄からの話でもあり、すぐに輝元は長門国・周防吉敷郡・元清遺領の17万7856石を秀元に与え、別家を正式に認めました。
 なお、この別家問題が解決に至ったのは、秀元と昵懇であった茶人の今井宗薫が裏で関係していたようです。宗薫は、宙に浮いたまま行き場のない秀元を気遣い、毛利家の国割に助言するよう家康に進言、その結果、家康が動いたというのです。
 のちに、これを知った秀元は「なぜ、宗薫は、みだりに家康殿に助言を求めたのか。家康殿は私が別家したいと思っているのだと受け取るではないか。先頃、諸将から別家の早期実施を求められた際、私は辞していたにもかかわらず、この度の件で、秀元の言は嘘であったと、諸将から嘲笑されることになるのであろう」と怒ったといいます。
 秀元のためにした行為が、返って秀元の立場をなくしてしまったということでしょう。とはいえ、長きに亘って毛利家中の火種のように燻っていた秀元の別家問題は、紆余曲折ありながらも、家康の仲介によって、広家も自領を離れることなく、解決したことは間違いありません。こうして、毛利家は再び一つになると見えたのですが、一連の問題で毛利家中に生じたしこりが、関ヶ原の合戦における毛利家の立場に大きな影響を与えることとなります…。
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コラム02−芸達者の秀元
 文禄・慶長の役で初陣を飾り、関ヶ原の合戦・大坂の陣で活躍した秀元は、よく武勇に秀でた武将として紹介されますが、さまざまな「数寄」に通じた風流の人でもありました。そこで、文芸に長じた秀元の芸達者ぶりを紹介したいと思います。
 まずは、「能」です。秀元は青年期に、僧でありながら能役者を凌ぐほどの舞を見せたという下間少進(しもつま しょうじん)に能を習っていました。その妙技を学んだ秀元は、豊臣秀吉が仕舞などに集中し過ぎないよう心配したくらい、見事な舞をみせたといわれています。
 なお、現在、下関の亀山八幡宮で10月に行われる神事「亀山能」は、文禄の役に秀吉が参拝祈願した際、秀元が能を奉納したことに始まったと伝わっています。
 また、秀元は、武士がたしなむべき技芸とされていた「蹴鞠」も得意だったようです。文禄2年(1593)正月、秀元が蹴鞠を家技としていた飛鳥井雅枝から、「鞠道」の弟子として『紫之組冠懸』を許されました。普段、朝廷に出仕するときに着ける冠は、頭に乗せるだけなのですが、蹴鞠の上達者には、組紐をつけることが許されたのです。
 つまり秀元は、若干14歳にして蹴鞠の達人として認められたということです。今で云うところのサッカー日本代表に、秀元は選ばれたといっても過言ではないかもしれません。秀元の運動神経が抜きんでていたことを物語っています。
 加えて、秀元は幼少の頃、万葉集や古今和歌集の古歌を書き写すなど、和歌を積極的に学んでいました。秀元の祖父元就も、戦いの合間に和歌・連歌などを学び、多くの作品を遺しており、元就の高い教養が、秀元に受け継がれていたようです。さらに、この歌道に対する姿勢は、秀元の孫である長府藩3代藩主綱元にも影響を与えており、綱元は13歳で歌会に出座し、多くの歌集を遺すなど、歌道の世界で名を馳せました。
 最後に、秀元が徳川幕府内での地位を高める要因ともなった「茶の湯」です。最高の文化人といわれた古田織部に師事した秀元は、将軍家光から接見を希望され、寛永17年(1640)品川御殿で茶会を催すよう命じられます。茶会当日、数寄の達人ぶりを存分に発揮した秀元は、家光や有力大名など多くの出席者から喝采を受けました。このことは、世間の注目を集め、秀元の文人としての名声を高めたといいます。
 秀元の文化的教養は、多くの文化人との交流で醸成された結果、豊臣政権・徳川幕府内で、自らの地位を向上させることに繋がったといえるでしょう。
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13.関ヶ原の合戦へ
 秀元と広家の間に微妙なわだかまりを遺しながらも、別家問題を解決した輝元は、さらに家康との仲を緊密にしていったようです。慶長4年(1599)10月、家康が大坂城に入る直前、輝元は家康から「2人(家康と輝元)が大坂城に入り、留守となった伏見城を、家康二男の結城秀康と秀元に任せたい」という相談を受けました。
 家康は秀康とともに秀元を政権に参画させようとしていたようです。政治の中心である大坂を家康・輝元が抑え、伏見に秀康・秀元という実働層の要を配した政権運営を考えており、家康は秀元を高く評価していたのでしょう。
 ところが、事態が急転します。慶長5年(1600)7月、家康が上杉討伐を決意すると、輝元が討伐に派遣した安国寺恵瓊が、石田三成と密かに会見、毛利家が三成に与して、家康打倒の軍を起こすことを独断で決めてしまったのです。
 このことを恵瓊本人から聞いた秀元は「輝元様は、家康殿と兄弟の契りを交わされ、太閤秀吉様の遺託に従い、協力して秀頼様を補翼されようとしておられる。それを三成の家康殿に対する個人的な恨みを果たすがための『私党』に加わるのは、義に反するばかりか、毛利家の滅亡を早めるだけではござらぬか」と意見したといいます。
 また、恵瓊は輝元が西軍盟主を承諾し、東上するまでの間、秀元に大坂城西の丸に入るよう説得しますが、「輝元様の意見を聞くまで、妄りに行動を起こさない」として断固拒否しました。
 しかし、反対を予期していたのか、すでに恵瓊は、輝元に大坂城入りを促すための使者を広島に派遣していました。このことを知った秀元はじめ、在坂の毛利家重臣たちは、輝元上洛に反対で意見をまとめ、東上を阻止するための使者として、秀元家臣の椙杜下総守(元縁)を派遣しますが、時は待ってくれませんでした。
 すでに、広島を出発した輝元に使者は会えず、輝元が西軍盟主として大坂城に入ったのでした。これを嘆いた秀元は、身命をなげうつ覚悟で「家康が百戦錬磨の勇将であることは、今さら言うまでもないことにございます。西日本の諸大名が家康に従い、上杉討伐に参加しているのが良い例ではございませんか。ここは、家康殿との『義盟』を守られ、秀頼様を擁護することこそが大事にございます」と説得にあたります。さらに「私が三成の家康討伐という安易な私闘を辞めさせるよう説得させてみせましょう。もし、三成が私の言に従わなければ、討つまでにござる!!」と重ねて言いました。
 …ですが、毛利家を想う秀元の熱い言葉は、輝元の心に届きませんでした。結局、輝元は、秀元の説得に耳を傾けず、ただ「そちは、瀬田(滋賀県大津市)に陣を置き、機に応じて兵を退却させるよう」と命じたのです。
 輝元の冷淡な対応に怒りを覚えた秀元は、「敵を見て退くのは軍法に反するものでございます。退却しなければ、輝元様の命に従わないことになりますが、軍法に背くものではございません。されば、私は戦死するまで!!」という一言を遺し、戦場に向かったのでした。ここに、秀元は死を覚悟し、徹底抗戦を誓ったのでしょう。
 しかし、一方で、吉川広家・福原広俊が、秘密裡に家康との和議を進めており、毛利家中が意思統一されないまま、運命の日を迎えることになるのでした…。
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14.秀元の気概
 秀元が徹底抗戦を誓った直後、輝元は小早川秀秋に、伏見城攻撃を命じます。そこで、瀬田に向かう命を受けていた秀元は、家臣の椙杜元縁を伏見城攻撃に派遣しました。
 数日後、傷を負って帰参した元縁から、伏見城攻撃が遅延している報告を聞いた秀元は、「伏見城は交通の要衝にある堅城。これを早めに攻め落とすことが肝要であるにもかかわらず、秀秋の攻撃は遅々として進んでおりませぬ。これは、秀秋に異心がある証拠にございます。ぜひ、私にも伏見城攻撃を命じてください。さすれば、すぐに攻め落としてみせましょう!」と輝元に進言します。
 ところが、輝元は「伏見城は秀秋に任せておるのじゃ。今、秀元が行って、城を攻め落とせば、秀秋は必ず怨みを抱くはずであろう」と言い、早々に秀元を瀬田に向かわせようとします。
 そこで、秀元は秀秋に対する疑心を輝元に打ち明けます。「秀秋は今、毛利家の一族に属していますが、その行動を推察すると、甚だ疑わしいものがあります。もし、私が伏見城攻撃に参加して、これを攻め落とせば、秀秋は意気消沈して、西軍に随従するでしょう。しかしながら、秀秋が城を攻め落とせば、思い上がり甚だしく、他日必ずや大きな災いとなるでしょう」
 西軍勝利のため、禍根を今のうちに絶っておきたい秀元でしたが、輝元は聞く耳を持ちませんでした。さらに、秀元は大津城の早期攻撃を促しますが、再び輝元に拒否されます。秀元は悔しさを滲ませながら、瀬田に向かったことでしょう。(※秀元が伏見城攻撃に参加したという話もあります。)
 瀬田に到着した秀元は、佐和山から大坂に向かう石田三成と面会します。その際、秀元は秀頼を奉じて、東国に攻め入ることを主張。これに対し、三成は「東軍に属する福島正則・池田輝政など豊臣恩顧の武将は、必ずや我等に味方するはず。されば、早急に秀頼様が御出馬される必要はない」と答え、秀元のもとを立ち去ります。
 このとき、秀元20歳。輝元(48歳)・三成(40歳)は、秀元に対して、自分の年齢の半分も満たない”若造”という意識があったのかもしれません。秀元は「輝元様と三成は、自分が若年であるため、侮っており、私が考えた策略を用いようとしない。山を見ずして狩りをするようなもので、嘆かわしい…」と近臣に漏らしています。
 秀元は「今の状況では、我が軍が負けるのは目に見えている。さすれば、私は鬼神をも従えて見せよう。すなわち敗死しても名を歴史に刻み、その誉れを後世に遺すことが自分の宿願である!!」と近臣たちに誓います。
 小早川秀秋の裏切り・西軍の敗北を見極めていた、秀元。秀元の意見に耳を傾けなかった輝元と三成。ここに、西軍の敗北を悟った秀元は、武将としての気骨を失うことなく、”自らが生きた証”を遺そうとしたのでした…。
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15.安濃津城攻め
 瀬田に陣を置いていた秀元は、東軍と一戦も交えず、時ばかりが過ぎていく状況を憂いていました。ようやく東軍に属する伊勢(三重県)の諸城を攻めるよう命令が下ると、慶長5年(1600)8月15日、秀元は吉川広家・益田元祥を率いて、近江土山(滋賀県甲賀市)に転陣。先手の様子によって、一気に伊勢へ攻め入ることとなりました。
 ところが、伊勢攻撃軍の指揮を取る長束正家が関(三重県)に陣を敷いたまま、なかなか動こうとしません。すると、秀元は長束正家の陣に走り、「徒に大軍を駐留させるのはどういうことか」と詰問し、速やかに軍を動かすよう促したといいます。家康の決断力を見抜いていた秀元は、家康が西下する前に、一刻も早く東軍の勢力を切り崩しておきたかったのでしょう。
 ようやく8月24日、長束正家を大将とする上方衆と秀元率いる毛利軍は、東軍方の富田知信が立て籠もる安濃津城を包囲し、攻撃を開始します。一進一退の攻防が続く中、家臣の西孫兵衛・伊秩采女などが負傷し、退却を余儀なくされると、秀元は自らが矢面に立ちながら、麾下を奮励。この様子を見た家臣たちは再び戦場に戻り、勇敢に戦ったといいます。
 翌日、秀元率いる毛利軍の活躍により、安濃津城が落城。富田知信は、高野山の木喰上人の命乞いにより、割腹を免れ、城を引き渡しました。
 この間、秀元とともに戦った広家は、激しい攻防戦により、吉川軍に大きな損害が生じたことを知ると、いち早く輝元に家康と和睦するよう進言しています。広家は、一城を奪っても東軍を迎撃できる勝算がないため、福原広俊と相談し、大坂城にいる堅田元慶を伊勢に呼び寄せ、毛利氏の存続を図るよう言い含めたのでした。
 実は、伏見城が陥落した8月1日、大坂城に籠もる輝元は、家康から受け取った「従内府之書状」の写しを、益田元祥を通じて秀元・広家に送っていました。この「従内府之書状」に書かれていた内容は不明ですが、この直後から、広家が黒田長政を通じて、家康との和平交渉を始めており、家康から輝元に対して何らかの提案があったものと考えられます。
 さらに、広家が輝元へ正式に和睦を勧めたことを考えると、和睦と引き替えの所領安堵や共同政権(bP3を参照)を約束したものであったのかも…と邪推してしまいます。

※この間の広家と家康の和平交渉がわかるもの。
「徳川家康書状 黒田長政宛 慶長5年8月8日付」「黒田長政書状 吉川広家宛 慶長5年8月17日付」「黒田長政書状 吉川広家宛 慶長5年8月25日付」

 しかしながら、8月26日、輝元の命は、東軍が木曽川を渡って赤坂(岐阜県大垣市)に迫っているため、すぐに美濃へ向かうようにというものでした。そのため、広家はやむなく関ヶ原まで、秀元と行動をともにとることとなったのです…。
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16.関ヶ原の合戦前夜
東軍を迎え撃つため、美濃へ軍を進めた秀元は、9月7日に南宮山(岐阜県垂井町)に到着。この間、輝元は、東軍方の藤堂高虎・加藤嘉明らの本拠である伊予方面の経略を進め、かつ尾張知多方面に軍を差し向け、東軍の背後を突いて勝利を得るなど、積極的に軍事行動を起こしていました。そのため、輝元は吉川広家から家康との講和を勧められていましたが、西軍有利の形勢を信じ、講和の話に耳を傾けなかったと考えられます。
 さて、9月1日に江戸を発した家康は、14日に美濃赤坂の岡山(岐阜県大垣市)に設営された本陣に入ります。これを知った西軍に動揺が走ると、石田三成は、本拠の大垣城と赤坂の中間を流れる杭瀬川対岸に陣を置く東軍に奇襲攻撃を仕掛けました。これに勝利して勢いづいた西軍は、今後の作戦を練るため、諸将を集めて軍議を開きます。
 これまでに、何度も軍議を行っていましたが、然したることも決まらぬままになっており、痺れを切らしていた秀元は、「家康本営に先制攻撃をすべきです。敵勢を目の前にして、何も手を打たないのは残念至極にございます。今ならば東軍方の軍勢も大方知れたることであり、西軍が勝つのは必定。されば、私に先鋒をお任せください」と直訴します。大谷吉継もこれに同調し、「合戦すべし!!」と述べ、さらには島津義弘・宇喜多秀家らも合戦を訴えました。
 しかし、三成は「大谷殿は目が薄い(目が見えないので、今の状況が把握できていない)ため、そのようなことを申すのであろう。敵はとるに足らず、戦わずにして勝てるものに、手間をかけるのは無駄である」と言い、先制攻撃を否定します。吉継は「私が病を患い、目が悪いため、石田殿は目が薄いと申されるのであろう!!」と立腹し、「我等は盲にて、軍議に役立つまい!!」と言い残し、帰陣。この後、軍議は紛糾しますが、秀頼を戴いて輝元が大坂城を出馬するのを待って、出撃することに決まります。
 ところが、東軍が佐和山城を経由して、大坂城に進撃する情報を掴むと、三成は西軍諸将に関ヶ原転進を命じます。このとき、秀元と共に軍議に参加していた叔父の元政(元就7男)は「先に、岡山に陣を置く家康本隊へ攻め寄せることができたならば、ことごとく敵を討ち取れたものに…。三成は物の善し悪しを論じるまでもなく、先に動くべきだったのだ…」と嘆いたという。
 全てが後手に回ってしまった西軍は、何度も勝利を得る時機を失い、かつ諸将の意思統一ができないまま、運命の一戦を迎えるのでした…。
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17.決戦、関ヶ原
 慶長5年(1600)9月14日の夜、西軍の主力部隊が大垣城から関ヶ原に移動を開始すると、その途次、三成は長束正家・安国寺恵瓊の陣を訪れ、狼煙を合図に東軍の背後をつくよう約束を交わしています。このことは、もちろん秀元にも伝えられたでしょうから、秀元はいよいよ決戦が近づいていることを肌で感じ、気持ちが高揚していたことでしょう。
 東軍はというと、翌15日未明、西軍の関ヶ原転陣の情報を得た家康から、主力部隊に関ヶ原への転陣を命じられ、移動を開始します。すると、朝霧の中、南宮山の麓を行軍する東軍に気づいた長束正家から先制攻撃を促された秀元は、先鋒を任していた吉川広家に出陣の命をくだします。
 ところが、広家が「霧が四方を覆っており、視界が悪く敵・味方の区別がつきませぬ。霧が晴れたと同時に、討って出ましょう」と回答したため、秀元はやむなく全軍を待機させます。
 その後、いつになっても広家が兵を動かさないため、秀元は家臣の斎藤孫左衛門に東軍の様子を偵察に行かせると、「霧の中を多くの兵馬の声が聞こえた」との報告を受けます。合戦の開始を悟った秀元は長束正家を引き連れ、福原広俊・吉川広家の陣へ向かうと、再度、出陣を命じます。しかし、広家は前言を繰り返すばかりで、兵を動かそうとしません。
関ヶ原古戦場址碑
関ヶ原古戦場址碑

 
 (ここで、秀元が広家を押し切り、全軍を率いて攻撃を仕掛けることができたかもしれませんが、先鋒を出し抜いて攻撃を開始することが軍法に背く行為であったため、秀元は本隊を動かさなかったと考えられます。秀元は輝元の命よりも、軍法に背くことを非としており、軍法遵守を大事としていたふしがあります。bP3を参照)
 仕方なく帰陣する正家は、「広家と広俊が、東軍に内通している噂を聞いているが、2人が兵を動かさないことからも、これは真実であろう」と秀元に打ち明けます。これを聞いた秀元は驚愕し、「毛利家にとって重大な話、なぜ自分に相談がなかったのか…。もし、内通が事実とすれば、ケダモノに似た所行である…」と広家・広俊に失望し、嘆息したといいます。
 それから間もなく、失意の念を抱いた秀元のもとに、西軍敗北の報が届きます。すでに敗報に接した諸将が、早々に伊勢方面へ退却を始めるなか、敗戦と内通の真偽を見極めるため、秀元は敢えて南宮山に陣を張り続けました。
 すると、南宮山に唯一残った秀元軍の本営に、広家が広俊を伴ってやって来ます。広俊は「自分は西軍の敗北を予見し、広家と協議して家康殿と内通することに決めましたが、内密のことである故、秀元様には告げずにおりました。家康殿も和議を約束しており、かつ戦が終わったのであるから、秀元様もあれこれ悩むことはないと存じます」と秀元に告白します。
 これを聞いた秀元は、内通の経緯・和議の内容を広家・広俊に問い質した後、「毛利家領国の安堵を約束したというが、その盟約書がないではないか。自らの親族を人質に出しているというが、そんなもの家康には通じるわけがないことくらい知っておろう!!」と秀元は2人を責め、「今、和議を講じているのであれば、私が輝元様に三成の私党に参加すべきではなく、家康との『義盟』を守るべきであると訴えた際、なぜ、そちらは私の意見を取り上げてくれなかったのか(bP3を参照)。さらに、その和議について輝元様・重臣達の承認を経ず、独断で和議を結ぶとは何事か!!確かに私は若齢・不肖であるが、輝元様から総大将を任じられた身であり、そちたちが私に和議の件を報告しないことは道理に外れた行為である。かつ外に情報が漏れるからといって、重臣たちにも報知しないことは、どの軍法に従ったものであるのか。」とまくし立てます。
 さらに、「和を講じるのであれば、家康からも人質をとるのが武門の法というものであろう。それを、こちらだけが人質を出すのは降伏を乞うものであると、そちたちは知っておるのか!!往古の昔から戦って勝敗が決まるのは兵家の常であるが、『戦わずして敗れ、勝敗を見ずに降伏を申し出る』ことが『講和』であるとは、今まで聞いたことがない。広家殿の父元春殿・兄元長殿も、このような醜恥をさらすのであろうかのう…」と嘆きました。この秀元の長口上を聞いた2人は何も言えなかったといいます。
南宮山毛利秀元陣址碑
南宮山毛利秀元陣址碑
 
 ようやく広俊が声を振り絞って「明日朝方、私たちは家康殿の求めに応じ、数人の家臣を連れて付き従うこととなっておりますので、秀元様は速やかに兵を発してください」と言うと、秀元は「自分に指揮を任された兵は十分に統率できるので、そちたちに従うことはない(言われる筋合いはない)」と切って捨てました。
 2人が去った後、明朝に南宮山を出発することに決めた秀元。敗戦後も、小競り合いが続く戦場で一夜を過ごすことに決めた秀元は、毛利家の存続を優先し、どの道が最善かを考えたのではないでしょうか。秀元の出した答えは…次回をお楽しみに。
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18.勇敢なる退却
 南宮山に残る秀元の本営に、思いがけない人物がやって来ます。その人物は、長束正家とともに伊勢へ逃れようとした安国寺恵瓊でした。恵瓊は「敗戦の責任は、自分にあるにもかかわらず、秀元殿を棄てて逃げるのは義に反する。この命を秀元殿に預けまする」と秀元に謝罪。秀元は、恵瓊の義に触れ、厚く遇したといいます。
 しかし、恵瓊のように、秀元のもとに帰参する者は希でした。多くの者が秀元を棄てて吉川広家のもとに奔り、敗戦の翌朝、秀元のもとに残ったのは、自身が率いる家臣及び叔父の毛利元政・元倶父子(後の右田毛利家)率いる3,000騎余り。
石田三成陣址から関ヶ原を望む
石田三成陣址から関ヶ原を望む
 
 日の出を待って南宮山を発した秀元は、農兵の襲撃に悩まされながらも、しんがりの元政を中心に何度も撃退し、行軍を続けます。南宮山の南西麓、牧田に達した秀元は、農兵の追従を受けながらも、一路伊勢街道を北上。前日、激戦となった地を見ながら、さらに伊吹山(滋賀県と岐阜県の境)方面に向かいます。まだ、戦いの匂いが残る戦地を通り過ぎた秀元は、何を思ったのでしょう。
 ようやく伊吹山に到着した秀元を迎えたのは、昨夜、秀元を棄てて広家のもとに奔った諸将たちでした。そこに、重臣の林志摩守(就長)・渡辺飛騨守(長)を連れた福原広俊が面会に訪れます。広俊は「先に、諸将へは秀元殿に従うよう申し付けておきました。しかし、諸将が勝手に広家殿に付き従ったので、私が命じたのではございません」と弁解し、「明日は必ず諸将を秀元殿に従軍させるため、林・渡辺の両名をお預けいたしまする」と謝罪した。加えて、広俊は先日と同じように「私は広家殿とともに家康殿に従うため、先に出発することを御了解ください」と述べ、去ります。
 しかし、案の定、諸将は秀元を置いて、広家らに従い先発します。諸将のうち、唯一秀元に従った口羽六兵衛は「秀元殿の出発を待たず、陣を発するとは不敬の罪であり、許すわけにはいきません」と告げたといいます。これに感激した秀元は口羽を従え、元政にしんがりを命じ、琵琶湖の東南岸にある八幡山(滋賀県近江八幡市)を目指したのでした。
 関ヶ原の合戦後、敗北した西軍の諸将は、すぐさま東軍に謝罪状を送り、または主将を殺して家康に所領安堵を乞うなどし、自分の地位を保とうと奔走しています。その中で、毛利家の諸将が徹底抗戦を誓う秀元に従うよりも、和平工作をして家康と良好な関係を築いたとされる広家に従うのもやむを得なかったのでしょう…
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19.秀元の決断−広家と広俊の策略
 慶長5年9月17日、八幡山に到着した秀元は一夜の休息をとると、翌日すぐに八幡山を出発。秀元は一刻も早く輝元がいる大坂城に引き返し、徹底抗戦を訴えるため、行軍を急がせたのでしょう。
 すると、長原(滋賀県野洲市)に至った秀元の目の前には、家々が燃えており、煙が空に立ちこめている光景が広がっていました。この日は秀元と行軍を共にしていた吉川広家が、これ以上の行軍を危険と判断し、「街路はとても熱く、全く前に進むことができず、進退極まった感にございます。これ以上の進軍が難しいため、私はここで切腹いたしまする」と秀元に覚悟を告げます。秀元は「広家殿が言うことには納得がいかぬ。ましてや東軍との和議の一件を知っている人の言う言葉ではござらぬ。腹を切るというのであれば、今ではなく、以前に機会は多くあったでろう」と述べると、広家は言葉を失い、立ち去ったといいます。
 秀元は持ち前の統率力で、焼け野原となった長原の町を無事に通り抜けると、福原広俊を連れた広家の面会に再び応じます。両人は「秀元様に家康殿への人質になっていただきたい。これは家康殿が是非にと言われており、私どもの計略ではございませぬ」と言うと、秀元は「家康殿がそのような事を言うわけがあるまい。輝元様から出陣の命を受けた身であるため、輝元様から質に出るよう命じられたものでない限り、応じぬ」と拒否。さらに、2人が輝元様のためにもと懇請しますが、「今度の和議については知らぬこと故、輝元様のためと言うならば、和議の取りまとめもでき、才覚のある貴殿らの内、1人が質に出ればよかろう。私は何度、言われても質にならぬ」と言い放ちました。
 さらに、秀元の家臣である田代助心から「もし、若年である秀元様がお2人のおっしゃることを聞き、人質になることを了承されたとしても、私どもは引き留めますぞ!!なぜ、お2人は秀元様を惑わすようなことを言われるのか」と言われた広家・広俊は、機嫌を損ねて去ります。
 主人を守り通すことを堅く誓った家臣団に対し、秀元は「広家・広俊は”輝元様のため”にと申すが、なぜ開戦前に大坂城で出陣を止めなかったのか。また、和を講じるのは国の一大事であり、1人は自ら大坂に走って輝元様に許可をいただくべきだったのだが、勝手に和平交渉を始める始末。これを見れば、2人が自らの保身を考えていると、誰もが思うであろう。私を家康殿への人質にしようと考えたのも2人の独断であろう。仮に人質の申し出が輝元様からの命であるならば、遠い中国までも質になろうぞ」と言います。
 加えて「今、家康殿は人心を掌握するのに急いでいるであろう。この機会に乗じて家康殿の人質になれば、後の栄誉は間違いないであろうが、輝元様のためにはなるまい。栄達を遂げ、多くの禄高をもらえるとしても、輝元様の命でなければ人質になることは決してない!!広家・広俊と同じような所行はしない」と決意を表明しました。
 秀元の強い信念を感じた家臣たちは、主人を守り通し、一刻でも早く大坂城へ行こうと決意を新たにしたことでしょう。そして、秀元は織田信長の旧家臣で当地の地理に明るい田代助心を先導とし、一路大坂まで急ぐのでした。
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20.整然なる行軍
 少し話が前後しますが、伊吹山から琵琶湖沿岸に向かう途中、醒ヶ井(滋賀県米原市)まで来た秀元は、石田三成の居城 佐和山城(滋賀県彦根市)を東軍勢が取り囲み、城の出丸(本城から張り出して設けられた小城)に侵入する様子を目にし、また城の麓を通る頃には天守に火がかけられ、落城目前の光景を目撃します。
 佐和山を通りすぎる秀元軍に対し、行軍を遮るかのように数万の東軍が陣取っていたため、秀元は一段と兵に備えを命じると、道の左右にぴったりと兵をはりつけ、「鷹の羽」の幟と「ふんどう(分銅)」の幟をなびかせながら、あえて急がず整然と行軍させます。東軍勢の中を、毛利家の総大将として、静粛に行進する秀元の姿は、東軍諸将そして家康に降った元西軍諸将たちの目にどのように映ったのでしょうか…
 ちなみに、「鷹の羽」は勇猛果敢な尚武のシンボルとされ、「分銅」は秤で目方をするときに標準とする重りのことで、正確に物事を把握できるというところから紋として使用されたと考えられています。東軍との再戦に対する覚悟を示す一方で、今はまず大坂に向かうことが専決であるという秀元の精神バランスを表しているのかもしれません。
 すると、佐和山に向かう道筋に、家康の本陣を示す「扇」の馬印を見つけた秀元は、一言もの申そうとしたのでしょうか、家康のもとを訪れようとします。さすがに、大将の身を案じた重臣達から家康への対面を止められてしまいますが、逆に家康本陣から騎馬武者1人が秀元の元に馳せ参じました。その人は、秀元とも面識のある永井右近大輔(直勝)で、ひととき昔日を談じた後、永井は「秀元殿が通られる間、東軍勢は道の右に片付けているので、左を御通りくだされ。秀元殿が通られた後、東軍勢は道を通らせていただきまする」と伝えます。
 永井が秀元を訪れた理由は、この話をするためだけではありません。実は、家康から「秀元軍がどのような行儀にて、行軍するかを見てまいれ」と言い含められていました。帰陣した永井は「とても静かに、神妙なる行軍でございました」と家康に復命すると、家康は「何もせず、秀元殿を通らせよ」と言ったといいます。
 さらに、家康の側に仕えていた松平右衛門尉(松平正綱カ)に対して「このような時にこそ、剛勇の者か、臆病者かがわかるのだ。秀元殿のように整然な行軍をされるのは、わしらにとっては良くないことじゃのう。まるで年老の覚悟を見るようじゃ」と賞賛の声を上げたといいます。
 もし、秀元軍の行軍が騒々しく、血気にはやるものであれば、この場で秀元軍と東軍の戦闘が始まっていたかもしれません。まずは輝元に徹底抗戦を伝えることを本命としている秀元は、少ない兵力で東軍を相手にする不利益を考え、あえて緩々と整然とした行軍をとったのではないでしょうか。
 後に、この話は松平右衛門尉から尾張大納言(徳川義直:家康9男)・紀伊大納言(徳川頼宣:家康10男)・水戸中納言(徳川頼房:家康11男)に語り継がれたといいます。関ヶ原の合戦後に秀元が徳川家との親密な関係を築くにあたり、影響を与えたかもしれません。
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21.秀元と黒田長政
 家康から通行の自由を許された秀元は、悠々と行軍を続け、野路(滋賀県草津市)まで進みました。ここで、水口城(滋賀県甲賀市)攻撃に向かう東軍諸将と別れ、さらに進んだ秀元は、小松原(滋賀県大津市)に野営します。すると、そこに福島正則軍が現れ、これを迎えた秀元に、正則は膳所(滋賀県大津市)在陣の黒田長政を訪れるよう告げました。これを承諾した秀元は、吉川広家が進めていた講和交渉の徳川方窓口であった長政が自らを人質にしようと企てているだろうと考え、警戒します。
 十分な休憩をとった秀元軍は、再び行軍を始め、膳所に到着。出迎えた長政が「(2人の間が離れていれば、)不意に矢を射かけられるかもしれませんから」と言って秀元に歩み寄ります。この厚遇を逆手にとった秀元は「そうですな。誠に手厚い待遇に感謝します」と述べながら、長政の体を引き寄せて右手を取り、長政の体の自由を封じました。いざという時に黒田勢の不意打ちを受けないよう、主将の長政を盾にして、話を進めようとしたのです。
 秀元の剛力に体の自由を失った長政が「天下は既に決しております。秀元殿も広家殿の言に従い、人質となるのが最善の策でありますぞ」と説得すると、秀元は「私は輝元様の命に従う者でございます。広家らが和議を結んだというが、それは私の預かり知らないもの。もし、家康殿の人質となり、和議について聞かれたとしても何も答えることはございませぬ。ただ、輝元様が人質になるよう命じるのであれば、喜んで人質になりましょう。そうでなければ、誰に勧められても人質になることはありませぬ。さて、私は輝元様に相談することがある故、大坂に向かいます」と長政に別れを告げました。なお、問答の間中、秀元に握られていた長政の腕は5・6日後まで痺れ続けたと伝わっています。
 関ヶ原から大坂に向かうまでの間、家臣の裏切り、徳川家康をはじめ東軍諸将による降伏の勧告、吉川広家・福原広俊による執拗なまでの人質工作を、臨機応変に対処・解決した秀元が、大坂に到着したのは、敗戦から3日後のことでした。
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コラム03−秀元の腕力
 慶長の役で釜山浦に滞在していた際に、秀元が小姓たちに腕押しをさせていた時のこと。小姓たちの力くらべを見終えた秀元は、次に盤持ちによる力くらべを催すため、将棋盤を用意させます。秀元は鉄砲8挺を乗せた将棋盤を軽々と持ち上げ、「軽すぎるぞ。さらに5・6挺を加えてくれ」と命じると、合計13挺もの鉄砲が置かれた将棋盤を再び軽々と持ち上げ、15畳ほどの書院を3回廻り、何事もなかったかのように、元の場所に置き直しました。
 さらに秀元は、よく太った斎藤弥九郎という家臣を将棋盤に上に立たせると、将棋盤を持ち上げ、座中を廻ったといいます。斉藤は「盤が傾き、揺れることなどなく、まるで畳の上に立っていたようであった」と感嘆し、この光景を見た人々も舌を巻いたと伝わっています。
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22.徹底抗戦を説く!!
 大坂に向かう最中、伏見で秀元を出迎えたのは、家臣の内藤総兵衛だけでした。輝元をはじめ多くの諸大名が屋敷をもぬけの殻としていたなかで、一人今まで秀元の屋敷を守り抜いていた内藤の浅からぬ覚悟に感激した秀元は、内藤を引き連れて大坂に向かいます。
 大坂の入口に達した秀元軍でしたが、京橋口に番を張る増田右衛門から足止めされます。しばらく待たされた秀元のもとに、大坂城から輝元の使者として児玉若狭守・榎本中務がやって来ました。2人は「輝元様が大坂へは少数の供衆だけを連れて来るようにとの仰せでございます。多勢は無用にございます。」と秀元に伝えます。この時、関ヶ原で秀元が家康に寝返ったという雑説を信じていた輝元は、疑心暗鬼となり、秀元に小勢にて大坂へ入るよう指示したようです。
 家臣を木津の屋敷に留め、単騎大坂城に入った秀元は、軍装を解いて長袴を着けた者が闊歩する状況に唖然とします。危機感のない城内の雰囲気に激怒した秀元が、輝元に対して関ヶ原の敗戦を詳細に話すと、雑言を信じていた輝元は秀元に謝罪し、かつ今後の方策を考えるよう指示しました。秀元は熊谷元直に命じ、城内各門の番を申しつけると、ようやく城内にもただならぬ雰囲気が漂い始めます。
 再び、輝元に謁見した秀元は「広家と広俊が領国安堵のため、家康と和平が成立したといいますが、両人ともに浅はかなる考えにて、そのようなことはございません。毛利家の国数が多いことを忌避する家康は、必ずや輝元様を陥れ、毛利家を滅亡させようとするでしょう」と講和交渉に信頼を寄せることを危ぶみ、「ここは天王寺の岡山城に籠城して一戦し、雌雄を決することが必定にございます。家康は関ヶ原で1度勝利しただけで、西国の人心を完全に得ていません。私が本国にある強兵を率い、堅城に籠もって勝敗を決すれば、家康は必ず考えを改めて広家らが約束した領国安堵を守りましょう。もし、戦いに敗れたとしても、汚名を遺すことなく、御先祖に対しても面目が立ちましょう」と徹底抗戦を訴えます。
 しかし、この話を聞いた重臣から「広家殿が領国安堵の約束をしているにもかかわらず、秀元殿はみだりに疑心を抱き、大事を起こそうとされておられます。これは、逆に毛利家・領国保障に禍をもたらすやもしれません」と意見が出されると、輝元は驚愕。
 輝元は秀元に対して、「家康との対決を企図したことで、もし毛利家に禍が生じれば、私はそなたと一緒に死なねばなるまい。どうにか考え直してくれないか」と哀願すると、秀元はやむを得ず徹底抗戦論を取り下げました。
 秀元以外にも立花宗茂らが西軍盟主である輝元に徹底抗戦を訴えましたが、輝元は頑なに家康への恭順を示したといいます。仮にも西軍を統帥する立場にあった輝元ですが、自らの領国安堵に執着した結果、徹底抗戦という選択をしなかったのかもしれません。
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23.輝元の大坂城退去−秀元の涙
 輝元が徹底抗戦か和平かを悩んでいた頃、東軍に味方した豊臣恩顧の諸将も、今後の身の振り方について苦悩していました。大坂に向かう家康を迎えるため、大津(滋賀県大津市)に滞陣していた福島正則・黒田長政・藤堂高虎らは、「我等は秀吉様の御恩を受けたことを忘れてはおらず、このたび家康に味方したことは止むを得ないことであり、秀頼公に敵対したのではない」ことを確認しますが、「輝元が秀頼公や子(秀就)を捨て、領国安堵を条件として家康に降伏するのだろうか。もし、輝元が秀頼公を戴き、あくまでも徹底抗戦を続けるのであれば、このまま家康の味方で良いのだろうか」と進退に悩みます。全員の意見がまとまらず、結論が出なかったのでしょうか、輝元の挙動を見定めて、今後の去就を決めることになりました。
 そこで、福島正則らは輝元に使者を派遣し、「今や天下は既に決しておりますので、輝元様が家康殿に大坂城西の丸を明け渡せば、天下が益々安寧いたしましょう」と伝えると、輝元は、秀頼を大坂城に置き留め、すぐさま木津の毛利家屋敷へ遷ります。これにより、正則らの懸念であった秀頼が家康の側に置かれることとなり、豊臣恩顧の東軍諸将が大喜びしたのは言うまでもありません。
 逆に、輝元の大坂城放棄を知った秀元は驚愕し、「なぜ輝元様は急に事を誤れたのか。たびたび輝元様には諫言をもって色々申し上げた際、意見を用いてもらえなかったが、この期に及んで、一つも反省されておられぬ。懲りもせず私に報せなく、木津の屋敷に移るとは…。例え木津の屋敷に移るとしても時機があるものを…、ともかく言葉も出ない」と落涙しながら、誰ともなしに呟いたといいます。
 また、秀元の家臣も「輝元様が秀元様の意見に従い、岡山城に籠もり勝敗を決すれば、豊臣恩顧の福島・黒田・藤堂など毛利家に怨みを抱いていない諸将は、家康を寝返り、剣を納めたであろうに。そうなれば、雌雄が決していない状況の中、和平・抗戦を決めるのは我等、毛利家にあり、利が大きいはずであった。誠に口惜しきことである」と嘆いたそうです。
 輝元の大坂城退去は、盟主・当主の立場から西軍及び毛利家の敗北を認めたこととなり、毛利家の本格的な和平交渉にも大きな影響を与えていきます。
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24.家康に翻弄された毛利家
 木津の毛利屋敷に移った輝元に代わり、9月27日に大坂城に入った家康は、一転して毛利氏の領国安堵・輝元の身分保証の約束を反故にし、西軍盟主としての輝元の責任を追及し始めました。9月30日、家康は秀忠が島津攻めのため、広島まで出陣するので、輝元に先陣を命じます。実際に島津攻めが実行されることはありませんでしたが、屈辱的な命令に輝元が動揺したのは、言うまでもありません。
 10月に入っても、家康の高圧的な態度が続きます。同月2日、家康の内命を受けた黒田長政は、吉川広家に対して、輝元が西軍盟主として諸国への廻状に署判したことや、毛利軍が伊予に渡海して東軍の藤堂高虎・加藤嘉明の領国を攻撃した責任を追及し、輝元の領国安堵の約束を破棄し、代わりに広家へ中国地方のうち、1カ国及び2カ国を与える旨を記載した起請文を送りました。事態の急変に驚いた広家は、一連のことは輝元の計画でなく、あくまでも安国寺恵瓊・奉行衆(石田三成ら)の企てであるとし、思慮の浅い輝元をかばって、毛利家の存続を嘆願するとともに、毛利家の領国を剥奪して広家に与えようとする家康案を辞退します。
 このような誘いは、秀元にもあったようです。秀忠の命を受けた榊原康政が藤堂高虎・古田織部を秀元のもとに派遣。2人は秀元に「家康様は秀元殿を武勇に長けた好漢であると評され、かつ秀吉様が生きていた頃からの旧縁を大事にされ、秀元殿に長門一国を譲り、さらに関係を深めたいと考えておられます」と伝えます。この申し出に対し、秀元は「このような申し出を受けて大変光栄でございますが、私が長門国を治めれば、輝元様はいずれの領国で、家臣を養えばよいのでしょうか。輝元様を指し置いて、私が領国をもらい受けることはできませぬ」と辞退しました。藤堂と古田が重ねて「長門国は元々、秀元殿に与えられていた領国であり、必ずしも断る理由にはなりませぬ。秀元殿が拒絶されれば、私たちも使命を達せられず、辱めをうけることとなるので、考え直してくれませぬか」と懇請しますが、秀元は断固として受け入れませんでした。
 紆余曲折を経て、家康は秀元・広家への領国分与を撤回し、10月10日になって輝元父子に周防・長門2カ国を与える起請文を提出します。この起請文を受けた輝元の動揺は激しく、出家して気持ちを鎮めるまで1ヶ月近くを費やし、ようやく11月5日に家康の防長2カ国減封を承諾したのでした。
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25.秀元の所領決定
 藤堂・古田の領国分与の誘いを断った秀元は、輝元に対して「毛利氏の領国は10カ国から、僅か2カ国に削減された上、そのうち私に1国を割けば、10州の一族・家臣が路頭に迷うことは目に見えております。例え、家康が再三に渡って、私に国を与えようと使者を送ってきても、拒絶するのみにございます。輝元様は藤七郎(秀就)殿を後継者として、毛利家の正統を守られ、一族・家臣を一致団結させることが肝要にございます」と言い、「今、私が治める周防山口は地形が極めて堅固ですので、防長2州の適地に居城を選定されるべきであると思いますが、慌てて決定すべきではございませぬ。しばらく山口に居を定められ、少し落ち着かれてからでも遅くはございませぬ。私は山口を離れ、他に移りまする」と続けた。秀元の恩義に触れた輝元は歓喜したと言います。
 「毛利家乗」(長府毛利家稿本)によると、その後、秀元は周防岩国を仮居にしていたようで、輝元が居城を阿武郡松原(萩市)に選定した際、防長のうちで好きな場所を選ぶよう言われると、豊東・豊西・豊田の3郡を所望したと記されています。
 しかし、輝元が萩に城を選定したのは、慶長9年(1604)のことであり、あまりにも時間が経ちすぎています。実際はいつだったのでしょうか?
 「益田玄祥覚書」には、輝元が木津屋敷にいる時、防長2カ国のうち御城を7ヶ所定め、山口高嶺を輝元の居城とし、下関・長府の間に秀元、岩国に広家、右田(防府市)に宍戸元続、三尾(熊毛郡)に毛利元政、石見堺(須佐町)に益田元祥・景祥父子を配することにしたとあります。
 また、慶応5年11月2日、毛利元政(元就7男)・毛利元康(元就8男)に知行打渡状が出されていることから、この頃には秀元の所領が豊浦3郡(下関市の大部分)に決まっていたものと考えられます。
 毛利家の減転封に伴い、知行が17万7856石から3万6200石(約1/5)まで削減されてしまった秀元ですが、ここに長府藩が生まれることとなったのです。

『毛利秀元のあしあと 江戸時代編』は毎月1回の更新となり、平成24年4月から12月まで『源平のあしあと』(毎月1回中旬頃更新)も始まります。今後ともご愛読いただきますようお願い申し上げます。
著者より
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26.秀元の長府入部
 防長2州への減転封が決まった後、追い打ちをかけるように、慶長6年(1601)2月、毛利家に難題を課せられました。輝元に代わって広島に入った福島正則から、先収貢租の返還を厳しく追求されたのです。8カ国から2カ国に所領を減らされた毛利家は、家臣団を養うだけで精一杯な状況であったため、これ以上の出費は、家の存続に係わる大問題でした。
 さらに、これに準じて、毛利氏の旧領に入ってきた堀尾吉晴(松江藩)・中村一忠(米子藩)などから相次いで先収貢租の返還を督促されると、輝元は所領の放棄を考えるなど苦悩します。この時、秀元や吉川広家など重臣たちが輝元に考え直すよう説得し、伏見の福原広俊の屋敷で対策を協議した結果、所領を維持しながら返済することに決まりました。(なお、完済するまで4年を費やしており、藩財政に大きな打撃を与えたようです)
 このように、秀元は関ヶ原の合戦の敗戦処理を行っていたため、すぐには長府に入部できなかったものと考えられます。
 また、慶長7年(1602)6月には、江戸で人質になっていた秀就と家康の孫(結城秀康の娘)の婚約がまとまると、その御礼使として、秀元は伏見の結城秀康邸に派遣されています。その翌日、輝元が毛利元政に送った手紙には「秀元下も彼条付て延引候、今ほと大坂候間」と記されており、秀元の下国(長府入部)が先送りにされていることがわかります。
 同年7月には、伏見城の修築工事を手伝い、家康から褒美を賜っていることから、秀元は自分の領国経営を後回しにして、伏見・大坂に残留し、毛利本家のために奔走していたと推測されます。
 秀元が長府に入ったのは、この後になると考えられ、慶長7年(1602)12月、秀元が家臣団に対して知行を一斉に配賦しているので、この頃までに長府へ入部していたことは間違いないでしょう。関ヶ原の合戦から2年後、ようやく秀元は本格的な領国経営に専念することができたのです。

 ※先収貢租の返還:旧領主が、当年の年貢で不足していた部分を、翌年以降の年貢で補っていたため、先取りした年貢を返すよう新領主が催促すること。
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・・・つづく。次回は、6月初旬頃の予定です。
参考文献
「下関市史 W」・「下関市史 X」・「下関市史 藩制−市制施行」下関市
「大日本古文書 家分け第八 毛利家文書1〜4」東京大学史料編纂所
「大日本古文書 家分け第九 吉川家文書1・2」東京大学史料編纂所
「萩藩閥閲録 第1〜4」山口県文書館
「毛利家乗」長府毛利家
「毛利氏と下関」・「長府毛利十四代記」下関市立長府博物館
「毛利輝元卿伝」マツノ書店
「毛利秀元記」防長資料出版社
「山口県史 史料編 近世1上・下」山口県

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 長府毛利藩を支えた人物
下関市立長府博物館
 
博物館本館(旧長門尊攘堂)は戦前の博物館施設の典型として、国の有形文化財に登録されています。
所蔵品は、長府毛利家遺品・幕末維新資料を中心に各時代各分野にわたり、その中には坂本龍馬に関する資料も保存・展示されています。

展示予定
 常設企画展『長府藩祖 毛利秀元(仮称)』
 平成23年9月27日(火曜)〜 
下関市立長府博物館
◆下関市立長府博物館の情報はこちら
 
 
●資料紹介 bP
  『毛利元就画像仁如集尭賛』

永禄5年(1562)晩秋、存命中に描かれた晩年の元就肖像。
天正年間、秀元の父元清(元就4男)が開基となった日頼寺(元就の菩提寺)に寄進したものである。後に、再び長府毛利家の有に帰した。
数ある元就の画像としては、現存最古であり、老境にあった元就の温和な容貌をよく伝えている。

毛利元就画像  長府毛利家蔵・下関市立長府博物館寄託

毛利元就画像仁如集尭賛
 
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長府毛利藩を支えた人物
毛利秀元に関するパンフレットを紹介いたします。
毛利秀元のあしあとパンフレット
 
毛利秀元のあしあと

パンフレットについてのお問い合わせは

下関市立長府博物館
下関市長府川端1丁目2−5
 Tel 083-245-0555

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