下関と坂本龍馬の関係を、龍馬に関った下関市の人々とともにご紹介します。
薩長同盟で地均しは下関で〔慶応元年(1865)閏5月〜慶応2年(1866)1月〕
・5月に大宰府で長府藩士の時田少輔と会談し、翌月以降頻繁に来関(閏5月・10月・12月来関)。
桂小五郎(木戸孝允)を説得。
・この間、長府藩士の印藤聿や下関の大年寄伊藤助太夫と交流。
・長府藩士の三吉慎蔵と上京する直前、高杉晋作から漢詩と拳銃を贈られる。
長府藩士三吉慎蔵とともに〔慶応2年1月23日〕
・龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃で、慎蔵は得意の槍で応戦・脱出。
・事件中、慎蔵・龍馬の死生観が交叉。慎蔵は武士としての死を、龍馬は最後まで生き抜くことを訴える。
小倉戦争に参戦〔慶応2年(1866)6月14日〜7月上旬〕
・小倉戦争開戦直前、長州藩から薩摩藩へ贈られた米の返却と、薩摩藩名義で購入した長州藩船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)引き渡しのため下関に。その際、龍馬は参戦を請われ、同月17日に始まった小倉戦争を高杉晋作とともに戦う。
印藤聿〔いんどうのぶる〕
・長府藩士
・龍馬と長府藩府を結ぶパイプ役。(政治的支援者)
・維新後は、龍馬の夢を継ぐかのように財界で活躍し、関門地域の殖産興業に尽力。渋沢栄一らとともに門司の築港も手がけた。
(維新後は「豊永長吉」と名乗る。)
伊藤助太夫(九三)
〔いとうすけだゆう(きゅうぞう)〕
・長府藩領下関の本陣主で大年寄。(経済的支援者)
・政財界に顔が広く、龍馬の様々な依頼に応えた。
(土佐商会の馬関交易にも関与)
・伊藤家は、江戸時代を通じてオランダ商館長が逗留し、対馬藩を介しての朝鮮交易にも関わりがあったといわれ、海外情報や交易についても、精通していたと推測。
・龍馬の勧めで「助太夫」から「九三」に名前を変える。
(時代遅れだから・歌舞伎役者のようだから。)
・慶応元年(1865)以来、龍馬の止宿先。
・慶応3年(1867)の春には、下関居住を決めた龍馬に、自宅の一室「自然堂」を提供した。
三吉慎蔵〔みよししんぞう〕
・長府藩士。宝蔵院流槍術(三叉槍)の名手。
・印藤聿の紹介で、龍馬と知り合う。
・薩長同盟締結直後、龍馬と寺田屋で遭難し、以来、龍馬とは篤い友情で結ばれた。
・龍馬は慎蔵の家に度々足を運んで、土蔵の中で密談を交わす。
・いろは丸事件の談判の際には、龍馬からお龍の後事を託された。(遺言状)
毛利元周〔もうりもとかね〕
・長府藩13代藩主。
・龍馬を高く評価し、弊衣を纏う龍馬に衣類を下賜した。
・正室は「いろは丸」船主の大州藩から嫁ぐ。
(大州藩11代藩主加藤泰幹の娘。)
三吉周亮〔みよしかねすけ〕
・長府藩家老。
・若年ながら、長府藩の内政・外交・軍事の各方面で活躍した。
・龍馬の相談相手の一人。龍馬の夢に共感していた。
梶山鼎介〔かじやまていすけ〕
・長府藩士。
・龍馬から将来を期待されていた若手藩士。
・龍馬夫妻の夫婦喧嘩を目撃。
・英学修行の夢を龍馬に語る。
品川省吾〔しながわしょうご〕
・長府藩士。
・小倉戦争前夜、長府藩報国隊の幹部(斥候兼応接掛)として、高杉晋作と龍馬の間を奔った。
白石正一郎〔しらいししょういちろう〕
・清末藩領竹崎の荷受問屋で大年寄。
・勤王の志士たちを支援。
・文久2年(1862)、土佐を脱藩した龍馬は、最初に白石邸を目指したといわれている。
・小倉戦争の際、高杉晋作とともに、白石邸を訪ねる。
伊藤家での日々
・慶応2年(1866)12月に来関し、翌年1月初旬下関転居の手続きをとる。
・慶応3年(1867)2月、伊藤助太夫からその邸宅の一室「自然堂」を借り受け、愛妻お龍との生活を始める。
・伊藤家で髪を結ってもらう際、「唐人の寝言」という唄をうたっていた。
(現在も伊藤家に伝わる。)
・伊藤家で催された歌会に夫婦で参加。
(龍馬の和歌が会中で2位となる。三吉慎蔵も参加と推定。)
・夫婦で巌流島に渡り、花火を上げた。(お龍の述壊。)
・下関の遊郭街稲荷町から朝帰りし、夫婦喧嘩。その際、三味線を爪弾きながら俚謡をうたう。
・三吉周亮・印藤聿・伊藤九三らに夢(北海道開拓など)を語り、協力を求める。
・慶応3年9月、お龍・下関と永訣。(11月非業の死)
龍馬の手紙〔現存もしくはかつて存在していた事が明白なもの〕
伊藤助太夫宛14通(個人宛の書状では一番多い。)、三吉慎蔵宛10通、印藤聿宛6通、品川省吾宛1通、計31通
(他に下関で龍馬の帰りを待つお龍宛の手紙が1通有)
龍馬の書状では全部で130余通。全体の20%以上を下関に宛てた手紙が占める。
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