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給水開始110周年のあゆみ

はじめに

日本の近代水道の歴史 下関市の給水開始年月日 明治39年1月1日   私たちの住む下関市では、1906年(明治39年)から給水を開始し、今や水道は、私たちの生活の中で必要不可欠なものとなっています。皆さまのご理解とご協力により、生活基盤としての水道は、来年2016年1月に給水開始110周年を迎えます。
   そこで、全国9番目の近代水道として給水開始となった下関市の110周年のあゆみの中で近代水道※が誕生するまでをご紹介します。
※近代水道:川などから取り入れた水をろ過して、鉄管などを用いて有圧で給水し、いつでも使うことのできる水道。

水道がなかった頃

明治時代の井戸端での洗濯風景画像   1889年(明治22年)4月に赤間関(あかまがせき)市として発足した現在の下関市は、当時人口3万739人の港町で、交通の拠点として国内外を問わずたくさんの人と物が行き来を重ねていました。その結果、アジアでの重要な都市として、他国の様々な文化や情報の発信地として大きく発展することができましたが、それと同時に、各国の多くの船が出入りしていたため、コレラやチフスという恐ろしい水系伝染病がはやり、多くの人々が亡くなりました。
   水系伝染病が蔓延(まんえん)した原因の1つは、不衛生な飲料水によるものと考えられ、その予防には衛生的な飲料水の供給が不可欠でした。そのため、水道の布設を求める声が日増しに高まってきました。

安全な水づくりに向けて

イメージ   水系伝染病がはやる中、衛生問題を解消するために、1891年(明治24年)、下関市では水道布設工事調査の実施が決定し、内務省に対して調査を依頼しました。この依頼に対し、内務省から顧問技師のW.K. バルトン(William.Kinninmond.Burton)が派遣され、同年12月からバルトン氏一行による調査が開始されました。その結果、内日村一の瀬(現在の下関市内日一の瀬)を水源地とする水道布設の基本計画がまとめられました。

下関市水道の父

W.K.バルトン氏 瀧川釼二氏 写真   スコットランド出身のバルトン氏は、1887年(明治20年)に来日しました。来日以降、彼の功績は水道事業、下水道事業のみに留まらず、優れた教育者としても活躍し、多くの専門技術者を育成しました。
   水道布設の基本計画は、バルトン氏によってまとめられましたが、水道布設には莫大な工事費が必要でした。当時の下関市の財政で賄(まかな)うことは非常に困難であり、実際に水道布設工事を行うまでに10年の歳月が経ちました。その後、バルトン氏の基本計画を基に水道布設工事に取り掛かった技術者は、彼から衛生工学を学んだ瀧川釼二(たきがわとうじ)でした。
   瀧川氏は、大阪市水道工師長として大阪市での職務をこなしながら、下関市水道布設工事に取り組むという激務の中でも、各地の水道施設の視察を行い、人々が安心して飲める水道水を実現するため精力的に取り組みました。
   このように、2人の師弟の志が現在の下関市の生活を支えているのです。

近代水道完成!給水開始!

   バルトン氏の基本計画確認から10年後の、1901年(明治34年)にようやく水道布設工事に着手することができ、およそ5年の歳月をかけ、内日第1貯水池(貯水量1,000,000m³)、高尾浄水場(下関市春日町、貯水量8,400m³)、内日第1貯水池から高尾浄水場へ水を運ぶ導水管(口径350mm、延長12,369m)及び配水管(口径300mm~100mm、延長33,814m)が完成しました。そして、1906年(明治39年)1月1日より、念願であった給水が開始されることとなりましたが、バルトン氏の基本計画の調査から実に15年が経過しておりました。

内日第1貯水池築造工事高尾浄水場円形ろ過池築造工事

水道の基盤が完成!

   1906年(明治39年)に念願の給水が開始されて以降、鉄道の開通や関釜連絡船の国有化などで、ますます人の行き来が多くなり、それと同時に人口も約7万1千人にまで増加し、水道の使用量も多くなってきました。そこで、使用量増加に対処するため、1916年(大正5年)に、高尾浄水場のろ過池を1池増設したのですが、それでもなお、使用量は人口の増加と同時に増えていくことが予測されたため、1925年(大正14年)11月、内日第2貯水池(貯水量900,000m³)、日和山浄水場(下関市長崎中央町、貯水量8,000m³)の築造に着手し、1929年(昭和4年)2月に完成しました。
   この工事の完成により、内日第1、第2貯水池、高尾浄水場、日和山浄水場の施設が下関市の水道を支える主要施設となりました。これらの施設は、今も変わらず活躍し、市民の皆さまに水を送り続けています。